大久保駿熊|父・利通の遺志を胸に―日本の農業近代化に命を捧げた六男の足跡

  • 2026/07/24
大久保駿熊の肖像(『農学会報 (119)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
大久保駿熊の肖像(『農学会報 (119)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 維新の三傑・大久保利通の子供は8男1女、計9人と子だくさんでした。子供達はそれぞれに、官僚・政治家、農業技術者、銀行家などになり、まるで大久保の遺志を分担して受け継いだかのような人生を送っています。

 そのうち、農業技術者として父親の殖産興業の遺志を受け継ぐかのように生きた、六男・駿熊(しゅんくま)の人生を追ってみたいと思います。

大久保駿熊の生い立ち

 駿熊は明治3年(1870)6月13日に、大久保利通の六男として生まれました。母親は、幕末の京都で大久保の政治活動を支えた、妾のおゆうです。

※参考:大久保利通の子女
※参考:大久保利通の子女

 明治11年(1878)5月14日、父親の利通は暗殺されてしまいます。駿熊が8歳になる直前のことでした。今なら小学2年生、幼い駿熊は父の死をよく理解できなかったかも知れません。駿熊は年の離れた兄達を父親代わりとして、親戚や父の友人達などにも助けられながら成長したことでしょう。

農業を大きな柱とした、大久保利通の殖産興業策

 大久保利通は、内務卿として日本を西欧諸国に負けない豊かな国にしようと、殖産興業に力を入れていました。中でも重要視し、殖産興業の大きな柱としたのが農業です。

 大久保家は芝二本榎西町(現・港区高輪3丁目付近)に、敷地が3万坪もある別荘を持っていました。利通は岩倉使節団の一員として欧米各国を視察する旅から帰った後、広大な敷地を利用して、リンゴ、ブドウ、西洋なしなどの果樹を植え、茶畑、桑畑などもあるという、試験農場のようなものを個人的に作っています。

 自分でも実際にやってみるほど、農業の発展に関心を持っていたということでしょう。

 三男・利武によれば、農場内には馬車が通れるように道が作られ、子煩悩な大久保はよく土曜日に子供達を連れて別荘に行き、馬車で農場内を廻ったりしたといいます。

 駿熊は明治20年(1887)、父の創設した駒場農学校(現・東京大学農学部)へ入学します。利通が亡くなった時の駿熊の年齢を考えると、こうした環境に直接影響を受けたというよりも、周りからいろいろと父の話を聞かされているうちに、その遺志を継ぐように農業の道に進もうと考えるようになったのではないでしょうか。

 実は弟の七熊(しちくま)(1872~1943)も、同志社を経て札幌農学校(現・北海道大学農学部)を卒業し、農業技術者になっています。

日本の農業を担う人材育成を目指した、駒場農学校

 幕末~明治期には、各方面で人材育成のためにさまざまな学校が作られました。利通も、将来日本の農業を担う人材を育てようと、農業学校を作ることを計画しました。

 明治7年(1874)4月に、修学場という学校を設けて、獣医学、農学、農芸化学、農学予科などを教えるために、外国人教師を招くことを内決します。しかし、台湾出兵やその後始末など、政府内外の問題への対処で手が回らず、ようやく明治9年(1876)5月に農事修学場を新宿(現・新宿御苑周辺)に建設。明治10年(1877)2月から授業を開始しました。

開校のころ(1878年頃)の駒場農学校本校教室。パブリックドメイン。
開校のころ(1878年頃)の駒場農学校本校教室。パブリックドメイン。

 その後、農事修学場を移転させることになり、駒場野(現・目黒区駒場)に新校舎を建設。明治11年(1878)1月に駒場農事修学場から駒場農学校と改称し、開校式を行いました。

 利通は西欧から教師を呼ぶだけではなく、国内からも農業に精通した人材を登用しようとしました。その際、群馬県から推薦されたのが「明治の三農老」の1人、船津伝次平(1832~1898)です。

 船津は、わざわざ内務卿自ら会いに来てのスカウトに感激。駒場農学校の講師となり、利通の死後も近代的な農業の研究及びその普及に力を尽くしました。

船津伝次平の肖像(『船津伝次平翁伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
船津伝次平の肖像(『船津伝次平翁伝』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 また、利通は自分の賞典禄2年分5,400円あまり(1円=3万円換算で約1億6千万円)を農学校奨学資金として寄付。この資金を元手に、のちのちまで奨学金として役立てられました。

 利通がどれだけ、殖産興業とそれを担う人材の教育を重要視していたかがうかがえます。だからこそ、プライベートでも教育パパで、子供達にも社会の役に立つ人材になって欲しかったのではないかと思います。

駒場農学校を卒業し、農業技術者に

 駿熊は、明治27年(1894)に農科大学農学科を卒業しました(在学中に学校名変更)。その後、明治31年(1898)に鳥取県農学校の教師となり、明治33年(1900)には愛知県農事試験場長に転任。農業技術者としての道を着々と歩み始めます。

 探求心、向学心が強かったのか、駿熊は明治37年(1904)10月に海外実習練習生として海外に留学、養鶏や精糖などを学んで明治41年(1908)12月に帰国。日露戦争開戦後に出発したことになります。

 帰国後は、欧米で学んできた知識を生かすため、渋谷種畜牧場勤務を経て、糖業改良事務局の技師として大島(奄美大島)出張所の所長となりました。東京生まれの駿熊ですが、先祖代々暮らしていた鹿児島の地を踏むことができたのです。

 とは言え、父の利通は西郷隆盛を死に追いやった人間として故郷の鹿児島では嫌われており、親類なども東京へ移住していたので、残念ながら故郷へ錦を飾るという雰囲気ではなかったかも知れません。

赴任先での突然の死

 駿熊は糖業改良事務局廃止後、鹿児島県の大島糖業試験場長となりましたが、帰国からわずか4年後の明治45年(1912)4月23日に急死。享年41と、早すぎる死でした。

 海外で学んだ知識を生かして、これからますます活躍していけるはずで、本人も無念だったことでしょう。駿熊は、父・利通の親友、税所篤の孫にあたるサワ(1885~1958)を妻としていましたが、子供に恵まれる前に亡くなってしまったようです。

 駿熊は東京の青山霊園に葬られましたが、残念ながら本来の墓はすでにありません。利通の妾だったおゆうとその子供達の墓(利賢(としかた)をのぞく)は、以前は大久保一族の墓所と離れた一画にありましたが、10年以上前に撤去されてしまい、今は立体埋葬施設に移されています。

風貌も性格も父親・大久保利通に似ていた駿熊

 『農学会報』119号に、駿熊の写真が掲載されています(※冒頭のアイキャッチ画像)。母・おゆうの面影を感じさせる優しげな雰囲気を持ちつつ、父・利通にもよく似ています。

 性格は「資性温厚度量潤大」で、よく人の言うことを聞き、駿熊の下では部下が喜んで仕事をしたといいます。とても寡黙だったという駿熊の言葉に、よく人が従ったそうで、そんなところも父親似だったようです。

 利通は、自分に威厳があるせいで人から話しづらいと思われるのを苦にしていましたが、駿熊はそんな父親の風貌と性格をほどよくマイルドにしたような人だったのではないでしょうか。

おわりに

 大久保駿熊は、まさに働き盛りでこれからという時に亡くなってしまいましたが、利通が創設した駒場農学校で学び、農業技術者として研鑽を重ねる人生を歩みました。

 駒場農学校には利通の遺志が息づいており、駿熊は殖産興業によって国を豊かにしようとした父の背中を追うように生きたとも言えるのではないでしょうか。

【参考文献】
  • 佐々木克監修『大久保利通』(講談社 2004年)
  • 大久保利謙監修『旧皇族・華族秘蔵アルバム 日本の肖像 第10巻』(毎日新聞社 1990年)
  • 勝田孫彌『大久保利通伝(復刻版)』(マツノ書店 2004年)
  • 大山綱夫『札幌農学校とキリスト教』(EDITEX 2012年)
  • 『高輪地区地域情報紙「みなとっぷ」第54号』(高輪地区総合支所 協働推進課 2025年)
  • 東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部HP『東大農学部の歴史』( 2026年4月19日閲覧年)
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  この記事を書いた人
物心ついた時には歴史好きでした。 2018年に歴史新書『村田新八』(洋泉社)を共著で出版。 日本史や中国史など歴史は幅広く好きですが、特に幕末維新の薩摩藩を専門にしています。

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