飢餓地獄と化した鳥取城…秀吉に惜しまれた吉川経家の壮絶な最期と、子供に遺した言葉
- 2026/07/02
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百姓の小倅から天下人に成り上がった豊臣秀吉(羽柴秀吉)と言えば、城攻めの名手として知られます。しかしその手法は、えげつないものも少なくありませんでした。
中でも三木城の干殺し(ひごろし/ほしごろし)や鳥取城の渇殺し(かつえごろし)に代表される兵糧攻めでは、実に凄惨な地獄絵図を描いています。
今回はそんな秀吉に立ち向かった鳥取城主・吉川経家(きっかわ つねいえ)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
中でも三木城の干殺し(ひごろし/ほしごろし)や鳥取城の渇殺し(かつえごろし)に代表される兵糧攻めでは、実に凄惨な地獄絵図を描いています。
今回はそんな秀吉に立ち向かった鳥取城主・吉川経家(きっかわ つねいえ)を紹介。果たして彼はどんな人物で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
石見の国人領主として活躍
吉川経家は天文16年(1547)、吉川経安(つねやす)の嫡男として石見国福光城(島根県大田市)で誕生しました。幼名は吉川千熊丸(せんくままる)、母親は吉川経典女(つねのり娘)です。吉川氏は周防国の大内義長(おおうち よしなが)に従っていましたが、天文23年(1554)に大内氏が安芸国の毛利元就(もうり もとなり)と断交すると、総領家の吉川元春(もとはる)が毛利氏についてしまいました。
そもそも元春は元就の次男であり、吉川総領家に養子入りしていたためですが、吉川経安は引き続き大内氏に忠義を尽くします(その後、毛利氏に臣従)。
千熊丸が元服したのは永禄3年(1560)12月13日。総領家の嫡男であった吉川鶴寿丸(つるじゅまる。後の吉川元資→元長)を冠親として、通称を小太郎、諱(いみな。実名)を経家と名乗りました。
千熊丸改め吉川小太郎経家の初陣は、15歳となった永禄4年(1561)。福屋隆兼(ふくや たかかね)らが5千の軍勢で襲来した時、福光城に立て籠もって父と共に迎え撃ちます。無事に所領を守り抜いた経家はひとかどの武将として認められ、父と共に石見国内の安定化に努めました。
永禄11年(1568)1月5日に吉川元資(もとすけ)から式部少輔(しきぶしょうゆう)の官途名(私称の官職)を許され、その後は吉川式部などと名乗ります。天正2年(1574)には父から家督を受け継ぎ、父の後見を受けながら着実にキャリアを積み重ねていったのでした。
死地・鳥取城の守備を命じられる
そんな吉川経家の運命は、天正9年(1581)春に暗転します。対織田抗争の最前線である因幡鳥取城(鳥取県鳥取市)の守備を命じられたのです。この鳥取城は天正8年(1580)に城主の山名豊国(やまな とよくに)が織田信長に降伏し、織田方へ引き渡されました。しかしそれを不満に思った重臣の中村春続(なかむら はるつぐ)や森下道誉(もりした どうよ)らが豊国を追放、毛利氏に引き渡されたという経緯があります。
もちろん信長が黙っているはずはなく、羽柴秀吉に命じて激しく攻めさせていました。そんな最前線で指揮をとれる適任者として、経家に白羽の矢が立ったのです。
討死を覚悟した経家は天正9年(1581)2月26日、出立を前に嫡男の亀寿丸(かめじゅまる。後の吉川経実)に所領を相続させる書状を認(したた)めました。
「これで思い残すことはない」と、経家は天正9年(1581)3月18日に鳥取城へ入ります。経家は鳥取城を守備していた将兵から大歓迎されたそうです。皆「救い主が来てくれた」と思っていたのかもしれません。そんな将兵の思いを受け止めた経家は、天下に知られた鳥取城を守って毛利家に忠義を尽くし、後世に名誉を伝えようと決意を固めています。
渇殺し(かつえごろし)の地獄絵図
ここで鳥取城内の様子を確認すると、まず山名氏旧臣が約1千、毛利将兵が8百ばかり。そして経家の高名を慕ってか、籠城を志願した農民兵たちがおよそ2千ほど、合計ざっと4千名が鳥取城に集結しました。ちなみにこの人数は戦力となる者のみのカウントなのか、あるいは女子供や老人(将兵らの家族など)まで含めた数なのかははっきりしません。
経家は直ちに城郭を改修して防衛線を構築しましたが、肝心な兵糧はおよそ3ヶ月分しか蓄えがありません。3ヶ月というのは、平時のしかも常備兵の分だけです。今のまま籠城戦に突入すれば、1ヶ月食いつなげるかどうかも心もとないでしょう。
もちろん経家も現状を把握した上で兵糧の調達に奔走しますが、実は秀吉が因幡国内の米という米を買い占めさせていました。秀吉は財力にモノを言わせ、高値で買い取っていたと言います。それで鳥取城兵の中には、高額買取に釣られて備蓄米まで売ってしまった者もいたようです。
銭なんかいくら持っていたって、それが食えるわけでも、矢玉の足しになるわけでもありません。経家が多難な前途に頭を抱えているところに、秀吉は攻め込んできたのでした。
かくして天正9年(1581)6月、秀吉率いる2万の大軍が因幡国内へなだれ込み、7月には鳥取城を完全包囲します。もちろん秀吉の作戦は兵糧攻めです。圧倒的物量をもってじっくりじわじわ相手を絞め上げれば、勝手に滅んでくれるのだから、こんなに楽なことはないでしょう。
一方の鳥取城内は、早々に兵糧が尽きてしまい、待っていたのは予想通りの地獄絵図です。何とか1ヶ月までは食いつないだものの、2ヶ月目に入ると食えるものは何もかも食い尽くし、3ヶ月目には城兵から餓死者が続出するようになってしまいました。
『豊鑑(とよかがみ)』によると、鳥取城内では餓死した者の肉を切り取ってむさぼり食ったと言います。もはや忠孝などあるものか、子は親を食い、弟が兄を食うという惨状が繰り広げられました。
それでも4か月間にわたり、経家たちは地獄の籠城戦を耐え抜いたのです。極限状況に陥ると、城主を殺して敵に助命を乞うようなケースも少なくありませんが、経家に刃を向けるような者はいませんでした。よほど敬愛されていたのでしょう。しかしこれ以上の犠牲を見るに忍びず、経家は中村春続や森下道誉らと協議して、秀吉に降伏を決断しました。
秀吉に惜しまれながら壮絶な最期
経家:「最早これまで。わしらが腹を切るから、城兵の命は助けてほしい」
経家の申し出を聞いて、秀吉は切腹を思いとどまるよう説得したそうです。
秀吉:「吉川殿は見事に戦われた。此度の責は中村と森下が腹を切ればよい。吉川殿ほどの方を死なせる訳にはいかない」
ありがたい申し出ではあるものの、これまで餓死していった将兵らを思えば、自分だけおめおめと生き永らえる訳にはいきません。経家はあくまで腹を切ると秀吉の説得を固辞したのでした。
もはや翻意させることはできないと悟った秀吉は、信長に状況を報告した上で、経家に切腹させてもよいかと許可をとったそうです。
信長:「仕方あるまい。よかろう、切腹を許す」
何とも奇妙な話ですが、かくして経家は天正9年(1581)10月25日、自害に臨むのでした。
経家は家臣らと別れの水盃を交わし、具足櫃(ぐそくびつ。鎧箱)に腰をかけます。そして脇指の刀身を紙巻きにすると「うちうち稽古もできなかったから、不調法な切りようになろう」と大音声で言い放ちました。
ひたすら奉公に邁進してきたため、切腹の稽古などしようとも思わなかったのでしょうか。あるいは単なる謙遜かも知れません。
いざ気合いを入れて腹に脇指を突き立てると、家臣の静間源兵衛(しずま げんべゑ)が介錯を務めます。そして家臣の坂口孫次郎(さかぐち まごじろう)・福光小三郎(ふくみつ こさぶろう)・若鶴甚右衛門(わかづる じんゑもん)らが殉死しました。
武士(もののふ)の 取り伝えたる 梓弓(あづさゆみ)
かえるやもとの 栖(すみか)なるらん
【歌意】武士は弓矢をとる≒生死を度外視して戦うことこそ本分である。今こそ元の住処≒あの世へ還ろうではないか。
これは経家の辞世ですが、往時の古武士を思わせる心意気が伝わってきます。壮絶な最期を遂げた経家の首級は秀吉の元へ届けられ、秀吉は経家の首級を見て「哀れなる義士かな」と男泣きに泣きました。後に経家の首級は安土城にいる信長の元へ送られ、丁重に葬られたということです。
子供たちへ遺した愛情
経家は切腹を前にして、五通の書状を認(したた)めました。うち三通は現存しており、その一通は子供たちへ向けたものです。これが実に胸熱でして、この機会に紹介したいと思います。とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらへ候
ひやう つきはて候まゝ 我ら一人御ようにたち
おのおのをたすけ申し 一もんのなをあげ候
そのしあわせものがたり
おきゝあるべく候 かしこ
てん正九 十月二十五日 つね家 花押
あちやこ 申し給へ かめしゆ まいる かめ五 とく五
【現代語訳(ざっくりと)】
鳥取のお城について、君たちにお話しします。お父さんたちは、夜も昼もがんばって、お城を200日も守り抜きました。しかし兵(糧)がなくなり、お腹がすいて、力が出なくなってしまったのです。
それでも、お父さんたちは、お殿様やみんなのお役に立てました。お父さんたちはみんなで力を合わせ、家族や親戚の誇りを高められたと思います。
これは武士として、とても仕合せなことですから、お父さんが死んだと聞いても悲しまずに聞いてください。
天正九年十月二十五日 お父さんより
あちゃこちゃん 亀寿くん 亀五くん 徳五くん
文中「ひやうらう(兵糧)」と書くところを「ひやう」と書き損じているあたりに、極限状態を耐え抜いた心身の衰弱が感じられます。
お父さんが死んでも悲しまないでね。これはとても名誉で、武士として幸福なことなのだから。そして君たちも、みんなの役に立って喜ばれる人間になってほしい。そんな父としての愛情が、人々の胸を打ちます。
終わりに
今回は秀吉に敢然と立ち向かい、その死を惜しまれた名将・吉川経家の生涯を紹介してきました。有能であるがゆえに死地へ送られ、極限状況でも自らの使命をまっとうする姿は、武士としてあるべき姿と言えるでしょう。大河ドラマの主人公にしてもいいくらいの生き様が、より人々に知られ、敬愛されることを願ってやみません。
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