別所波と三木合戦の悲劇…敵兵を次々となぎ倒し、最期は我が子を手にかけた哀しき武勇伝
- 2026/06/29
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血で血を洗う戦国時代。武家に生まれた以上、女性たちも命のやりとりに臨むことが少なくありませんでした。
今回は別所賀相(吉親)の妻として戦場に刃を交え、壮絶な最期を遂げた別所波(べっしょ なみ。または波子)を紹介したいと思います。
今回は別所賀相(吉親)の妻として戦場に刃を交え、壮絶な最期を遂げた別所波(べっしょ なみ。または波子)を紹介したいと思います。
二男一女の母となる
波は生年不詳、畠山総州(はたけやま そうしゅう。在氏または尚誠か)の娘として誕生しました。成長して別所賀相の正室に迎えられ、間に二男一女をもうけたと言われます。男児2名は死亡した天正8年(1580)1月17日の時点で元服していない≒記録に諱がないことから逆算して、彼らの誕生時期は概ね元亀元年(1570)ごろ以降と推定できるでしょう。当時の男性が15歳で元服とすると、彼らは死亡時点で10代前半以下と考えられます。さらに男児らの推定没年齢から逆算して、波が20〜25歳ごろの出産と仮定した場合、波自身は天文9〜14年(1540〜45)ごろに生まれたのでしょう。
賀相や子供たちとの家庭生活について、詳しい記録は残されていません。そんな彼女が歴史に名を刻んだのは、天正6年(1578)の三木合戦でした。
母は強し!合戦で武勇を発揮
羽柴秀吉が別所長治らの立て籠もる三木城を包囲していたところ、4月5日の戌刻(午後8:00ごろ)に別所友之(長治弟)が夜襲を仕掛けます。『別所記』によると波は女乞食に身をやつして秀吉の完全包囲をくぐり抜け、援軍を要請しました。要請を受けて駆けつけてくれた援軍に呼応して、友之らが三木城から撃って出たのです。
この時に波も騎馬で敵中へ殴り込み、刃渡り2尺7寸(約81~82センチ)の太刀を奮って敵兵を7、8名ばかり斬り倒しました。
ちなみに敵中を突破して援軍を要請した人物について、『播州太平記』では「才智有足軽(さいちあるあしがる)」となっています。この人物は波が足軽に扮したものか、あるいは別人物なのでしょうか。
その後も籠城戦は続き、秀吉による兵糧攻め、後世に伝わる「三木の干殺し(ひごろし/ほしごろし)」によって苦しめられました。それでも城兵は果敢に抗戦し、波もまた武勇を奮ったと伝わります。
彼女は櫓の上から矢を射放ち、攻め寄せて来る敵兵20余人を討ち取りました。さらには騎馬で出撃して木下昌利の部隊へ乱入し、木下家臣の篠塚源八郎や堀久太郎の家臣、また六尺(約180センチ)の大男を斬り倒したそうです。
子供たちを次々と刺し殺す
しかし波や別所将兵の武勇も虚しく、別所長治は降伏を決断しました。別所長治は叔父である別所重棟の勧めにより、将兵らの助命を条件に、切腹することを受け入れます。天正8年(1580)1月17日、秀吉から贈られた餞別で別れの酒宴を開き、長治らは自害して果てました。この時、波は自身が産んだと思われる子供たち3人を刺殺し、喉を掻き切って自刃したと伝わります。
……爰(ここ)に希代之名誉有(きだいのめいよあり)山城(賀相)か女房者(にょうぼうは)畠山総州之娘也(なり)自害之致(これいたす)覚悟男子二人女子一人左右に並置心つよくも一々に差殺(刺殺し)主も喉頸(のどくび)搔切 枕を並て死たりけり前代未聞働哀成(はたらきあいなり)題目也……
【意訳】別所長治らが切腹した時、大変に名誉なことがあった。別所賀相の妻である波は、畠山総州の娘である。自害の覚悟を決めると息子二人と娘一人を並んで座らせ、気丈なことに次々と刺殺した。そして自身も喉首を掻き切り、枕を並べて果てた。これまで聞いたことのない彼女の振る舞いは、別所一門の名誉である。
戦国武将の妻子が自害する場合、多くは子は夫が殺し、妻も夫に殺してもらうものでした。夫が既に討死しているなど、いない場合は生き残っていた男性によって殺してもらうケースが大半です。そんな中、波は子供たちを自分の手で刺し殺すという気丈な振る舞いに及びました。
自分の腹を痛めて生んだ子供たちを、自分の手で殺さねばならなかった悲痛は、察するに余りあります。あるいは敵の手にかかるくらいなら、せめて我が手で、と思う親心(ある種の安堵)が彼女の胸中を占めていたのかもしれません。
夫・賀相の最期は?
ところで、子供たちの父親であった賀相はどうしたのでしょうか。実は重棟の勧めで長治・友之と共に切腹することに同意したものの、直前になって翻意しました。秀吉如きに我が首を渡してなるものか、と城に火をかけようとしますが、家臣たちによって殺されてしまいます。
家臣たちにすれば「今さら下手なことをして、我らの助命が反故にされたらどうしてくれるのだ」と言ったところでしょうか。殉死したいヤツは好きにすればいいですが、潔く散るのは、お偉いさんだけで十分なのです。
かくして別所長治・友之・賀相の首級は京都・安土(文献により異なる)へ送られ、織田信長による首実検に供されました。
一説には、賀相は逃げ延びて東雲軒賀相(とううんけん がしょう)と号し、儒者として文禄4年(1595)まで生き永らえたとも言われています。
また、子供の一人が乳母に守られて三木城を脱出し、別所伝右衛門という名で加藤嘉明(のち賤ヶ岳七本槍)に仕え、その家名を後世に受け継いだそうです。
終わりに
今回は別所賀相の妻・別所波について紹介してきました。……山城女房 後の世の道もまよはし思子をつれて出ぬる行すゑの空……
【意訳】可愛い子供たちを連れて、極楽浄土へ旅立つ私の心は、迷いなく晴れやかです。
これは彼女が詠んだ辞世で、我が手にかける子供たちに対する愛情が感じられました。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では割愛されていましたが、別所一族の滅亡に際して、彼女の「希代之名誉」「前代未聞働」に興味を持ってもらえたらと思います。
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