【風、薫る】看護婦を辞めた大関和は新潟で何をしていた?廃娼運動と運命の人との出会い
- 2026/07/21
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りんのモチーフとなった大関和も帝国大学第一医院を退職し、「生徒取締」として新潟の高田女学校へと赴任しています。
看護婦という天職を失った和は、高田女学校時代どのような生活を送っていたのでしょうか?新潟へ赴任した大関和の足跡をたどっていきます。
高田女学校とは
大関和が赴任した高田女学校は、明治21年(1888)5月19日、新潟県高田市(現在の上越市)に開校しました。東京の桜井女学校(現在の女子学院)の分校として設立され、発起人には高田盲学校の創設に尽力した眼科医・大森隆碩らが名を連ねています。教育方針は桜井女学校をモデルとしたキリスト教主義で、教員の多くは同校の卒業生でした。最初の教師はアメリカ人のミス・デビス、小川トク、井上チセの三名です。修業年限は4年で、修身・読書・作文・算術・地理・歴史・理科・英語・唱歌・裁縫・編物・家事・経済など、幅広い科目が教えられました。入学には尋常小学校卒業程度の学力が求められたといいます。
修身の授業では祈りや聖書を学び、唱歌ではオルガンに合わせて讃美歌を歌いました。これが高田で最初のオルガンだったと伝えられています。また外国人教師の服装は生徒に強い影響を与え、特にミス・デビスの束髪を真似る生徒が多く、これが高田で束髪が広まるきっかけになりました。
高田女学校は英語教育にも力を入れており、当時としては珍しい本格的な発音指導が行われました。毛糸の編み物や讃美歌のオルガン伴奏なども含め、いずれも高田では初めての試みで、人々の関心を集めたといいます。そのため生徒数は年々増え、30〜40名、多い年には60名を超えました。
しかし、仏教系女学校の設立が進み、反キリスト教的な空気が強まるなかで生徒数は次第に減少し、経営は困難となりました。その結果、明治30年(1897)4月に廃校となっています。
わずか10年足らずで閉校したものの、普通教科を重視し、家政中心の教育に偏らなかった点は当時として開明的でした。また、キリスト教主義の教育を通じて欧米の新しい女性観や人格主義を紹介した意義は大きく、高田女学校はこの地の女子教育に確かな足跡を残したといえます。
廃娼運動に邁進する大関和
明治23年(1890)11月、帝国大学医科大学第一医院を退職した大関和は、桜井女学校の設立者マリア・ツルーの勧めにより、高田女学校へ舎監兼伝道師として赴任しました。明治20年頃から各地で女学校熱が高まる中、桜井女学校の宣教師や卒業生は、高田女学校、宇都宮女学校、前橋女学校、静岡の善花(バラ)女学校、八王子女学校など新設校へ次々と赴任していました。
高田女学校の寄宿舎で生徒と生活を共にしながら、生徒取締として舎監と伝道に務めていた和が力を注いだのが、廃娼運動です。明治20年代には全国で廃娼の気運が高まり、群馬県では明治15年(1882)に「公娼廃止の建議」が可決されました。さらに明治19年(1886)には矢嶋楫子らが日本キリスト教婦人矯風会を設立し、公娼制度の廃止を訴えています。
こうした流れは新潟にも影響を与え、明治18年(1885)には新潟県会に「貸座敷移転ノ建議」が提出されました。貸座敷とは名ばかりで実質は遊郭を指し、この建議は遊郭そのものを否定するものではないものの、貸座敷を人目につかない場所へ移転すべきだとする内容でした。これをきっかけに「新潟新聞」では遊郭の是非が盛んに論じられるようになります。
こうした社会の動きを受け、高田でも廃娼運動が盛り上がりを見せました。明治24年(1891)3月13日、高田青年会は茶町の大惣亭で演説会を開催します。年季を終えて自由の身になろうとする娼妓たちを、甘言で再び貸座敷へ戻そうとする楼主の行為に抗議するためでした。続く19日には第2回演説会も開かれ、前回以上の盛況となりました。
この2回目の演説会で、大関和は自作の廃娼の歌をオルガンで演奏し、有志の婦人たちが合唱しました。続いて多くの弁士が廃娼を訴えましたが、聴衆に紛れ込んでいた貸座敷の楼主たちは用心棒とともに妨害を試みるという暴挙に出ます。
廃娼の声が高まるにつれ、貸座敷業者たちは存娼運動を組織し、廃娼同盟会に対抗する存娼会の結成を協議したり、売買春の必要性を説く演説会を開いたりしました。さらに廃娼演説会の妨害も繰り返しており、高田での演説会にも現れたのです。
しかし、廃娼を熱心に説く気迫ある弁士の訴えに押されたうえに、暴徒たちの言い分は聴衆にまったく支持されず、彼らは捨て台詞を残して退散したといいます。
和は、苦界に身を沈めた女性を救おうと青年たちが必死に運動しているのをみて、「これは男ばかりに任せるべき問題ではない、女が女を救わなくてどうする」と考えるようになります。そして自ら音楽会を開いて募金を集め、その収益を廃娼運動の資金に充てました。
また、この問題が起きて以降、高田に本社を置く北辰新聞社は楼主の非道を批判する記事を連日掲載し、運動を側面から支えました。
運命の人・木下尚江との出会い
大関和が、のちに結婚を考える相手となる社会主義者・木下尚江と出会ったのは、明治24年(1891)5月のことでした。
その少し前、帝大第一医院時代の和に看護を受けた相馬愛蔵が、長年の感謝を伝えるために高田を訪れます。愛蔵はドラマ「風、薫る」では入院していた丸山忠蔵(若林時英)のモチーフで、後に新宿中村屋を創業する人物ですが、17歳の頃、東京専門学校(現在の早稲田大学)への入学を控えていた時期に疥癬を患い、第一医院に入院していました。その際、和は入学に間に合うよう看護婦たちに一日3回の薬の塗布を指示し、愛蔵は一週間ほどで退院できたといいます。
その後、愛蔵は在学中にキリスト教の洗礼を受け、卒業後は郷里の安曇野で養蚕に関わる仕事を営んでいました。和が高田に赴任したことを知ると、早速訪ねて礼を述べ、その後も二人の縁は続いていきます。
愛蔵は、同郷の先輩で親しくしていた木下尚江に和の人柄を語っていました。話を聞いた尚江は「一度会ってみたい」と和に興味を抱きます。尚江は社会運動家として活躍した人物ですが、当時は弁護士を目指しながら、廃娼運動に関わっていました。
明治24年(1891)5月11日、高田で開かれた廃娼演説会に招かれ、キリスト教会で約200名の聴衆を前に演説を行いました。この演説会には和も参加しており、ここが二人の出会いとなりました。当時、和は33歳、尚江は21歳。尚江は「愛蔵の紹介に違わぬ女史の風格に、まず深い第一印象を得た」(相馬黒光著『穂高高原』)といいます。この出会いをきっかけに、二人は文通を始め、次第に親交を深めていきました。

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