【風、薫る】「おかしいことはおかしい」大関和が挑んだ東大病院の看護改革と待遇改善の直談判

  • 2026/07/06
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 NHK朝ドラ『風、薫る』では、看病婦の三浦ツヤ(演:東野絢香)がトレインド・ナースを志して勉強に励むも、過労による薬の投与忘れで解雇されてしまいました。ひらがなだらけの拙い字で一生懸命講義のメモを取り、寝る間も惜しんで勉強するツヤには、なんとしても正式な看護婦になって欲しかったのですが、残念です。

 さらにツヤに続いて第1期生の土居ヒデ(演:池田朱那)も辞めてしまい、主人公の一ノ瀬りん(演:見上愛)は看護婦取締の職を解かれてしまいました。意気消沈し涙で枕を濡らすりんでしたが、彼女のモチーフとなった大関和は、一看護婦に甘んじることなく看護婦の待遇改善を上司に申し出るという行動に出ています。

 まさに「大関和がだまってない!」を地で行く彼女。今回は「もの申す看護婦」大関和の奮闘を見ていきます。

「おかしいことはおかしい」と進言

 日本初の正規の看護教育を行う「桜井看護学校」で学んでいた大関和たち。キャリアの第一歩である実習生として帝国医科大学第一医院に派遣された際に直面したのは、近代医療の現場とは思えないほど過酷で荒廃した、看病婦たちの衝撃的な実態でした。

 帝国大学令によって最高学府となった帝大医科大学の付属医院で働く看病婦は、戊辰戦争の際に急遽集められた女性たちでした。荒々しい負傷兵を男性では扱いきれず、試しに物腰の柔らかい女性に看護を任せたところ、兵士が素直に従ったため、女性の看護人が導入されたといいます。

東京大学医学部(出典:『東京帝国大学五十年史』)
東京大学医学部(出典:『東京帝国大学五十年史』)

 明治時代となって病院や診療所が普及すると、家族以外の「職業としての看護者」が必要とされ、看護は家庭から医療機関へと移行し始めました。「看病人」「介抱人」「雇女」などと呼ばれた女性たちが患者の世話をしていましたが、資格制度も体系的な教育もなく、女性を職業人として育成する発想もありませんでした。

 感染症流行時には患者を隔離するための避病院で多数の看護人が雇われました。東京都公文書館の史料によれば、駒込病院で院内感染により亡くなった看護人34名のうち25名が女性でした。多くは貧困から「やむなく」看護人となった妻や母であり、危険な職務に従事せざるを得なかったにもかかわらず、世間は彼女たちを「命を売って金を得る卑しい人間」と蔑んでいました。

 第一医院では80名以上の看病婦が働いていましたが、その多くは下働きから採用された女性で、教育は包帯の巻き方程度しか受けていませんでした。「すれっからし」「あばずれ」と評される中年女性が多く、吉原の遣手婆(やりてばば)もいたといいます。中には杉本かねのように、夫に先立たれながら二児を育てつつ婦長として活躍した優れた看病婦もいましたが、全体として看護の質は低く、患者への扱いは粗雑でした。

 亀山美和子氏の著書『大風のように生きて』には、13歳の骨膜炎患者・竹内少年に対する看病婦たちの処置の様子が記されています。

「竹内という13歳の男の子は骨膜炎で入院していたが、病状はかなり進み、腰のあたりに大きな瘻(あな)ができてしまい、そこから大量の膿が出ていた。その膿を絞り出すために、天井に患者を吊り下げるような機械で体を締めつけるのだった。竹内は痛さに悲鳴をあげるのだが、看護婦たちはそんなことにはお構いなく、医師の命令とばかりに、手をゆるめようとはしなかった。」
※『大風のように生きて』より

 ナイチンゲール方式の教育を受けた和たちにとって、こうした看病婦の行為は到底看過できるものではありませんでした。

 さらに看病婦たちは衛生観念に乏しく、患者の世話を軽視していました。ある患者が和に一晩付き添いを求めたとき、彼女は事務所の許可を得て付添いをしました。付添人以外は夜間に泊まれない規則があったのですが、患者が苦痛に耐えながら一人で夜を過ごす姿を見るのは忍びなかったのです。

 ところが、和は医局の許可を取っていなかったため、医師たちから「勝手な行動をするな」と叱責されてしまいます。頭ごなしに怒鳴られるも、ここで引き下がる和ではありません。看病婦の看護が手抜きであるため実習生が動かざるを得ないのだと反論し、少年の緊縛処置や患者無視など第一医院の問題点を次々と指摘しました。

 女が医師に意見することに驚く者もいましたが、和の言葉に耳を傾ける医師もおり、外科の責任者で教授の佐藤三吉は和の人格を高く評価しました。

日本近代医学の創生期に活躍した佐藤三吉(1932年)の肖像。パブリックドメイン。
日本近代医学の創生期に活躍した佐藤三吉(1932年)の肖像。パブリックドメイン。

 和は患者の立場から看護の改善を強く訴え、第一医院の看護の質向上に影響を与えていきました。

第一医院の看病婦取締となった大関和

 明治21年(1888)、看護学校を修了した大関和、鈴木雅、桜川里以は、第一医院の看病婦取締に任命され、医師と協働しながら専門性の高い看護を実践しました。

 和は患者のために献身的に働き、生活に困窮する入院患者を見かけると放っておけず、給料の多くを援助に充てていました。明治22年(1889)1月、帝大寄宿舎が全焼し、負傷した学生が多数収容された際も、付添人も金もない学生を見かね、桜川里以とともに無償で看護に当たることを願い出ています。

 こうしたトレインド・ナースの働きぶりから、第一医院は「親切で技術も確かな看護婦がいる」と評判となり、和の名は医療界に広く知られるようになります。

大関和(1926年頃)。パブリックドメイン。
大関和(1926年頃)。パブリックドメイン。

 また、美貌の和は若い医師たちの憧れの的でもありましたが、彼女の関心はキリスト教主義による看護しかなく、医師たちも布教の対象にすぎませんでした。そっけない彼女の態度にプライドを傷つけられたと感じる医師もいたそうです。

「学びたい」と願い出た看病婦たち

 毎日快活に働く和でしたが、多くの患者の信望を一身に受けている彼女を快く思わない看病婦もいました。和があきらめずに看病婦たちにナイチンゲールの話をし、看護婦の使命や崇高さについて語ったことで、看病婦たちも次第に心を開いていき、正式に看護を学びたいと願い出たのでした。

アグネス・ヴェッチ(中央)と大関和(前列右より二人目)。パブリックドメイン。
アグネス・ヴェッチ(中央)と大関和(前列右より二人目)。パブリックドメイン。

 第一医院では、和たちの指導者だったアグネス・ヴェッチの解雇とともに看護教育が中断していました。和は瀬尾原始ら医師たちに講習再開を提案し、瀬尾たちが学長や院長らに相談した結果、「看病法講習」が再開されることに決まりました。看護の質を高めたいと望んでいた和にとって、看病婦たちの学ぼうとする意欲は、この上ない喜びだったに違いありません。

 しかし、講習が始まっても、受講者たちの代替要員は補充されませんでした。従来の仕事量のまま講習を受け、夜は授業の予習復習となると、睡眠不足に陥るのは当然です。看護講習に参加している看病婦たちが疲れ果てているのは明らかで、疲弊は看護の質の低下にもつながっていきます。一人また一人と講習を辞める看病婦が出始めました。

 だれもが倒れそうなくらい無理をしている要員不足の今の体制は、労働環境としてふさわしくない……。大関和は、この状況を見過ごせず、向学心に燃える看病婦たちのために、ある行動に出るのです。

看護婦の待遇改善を求め教授に建議書を提出

 看病婦取締として組織改革を強く願う和は、まず外科医局に待遇改善を訴えましたが、黙殺されてしまいます。

 そこであきらめきれない和は、上司である佐藤三吉教授へ建議書を提出します。長い巻紙に墨痕淋漓たる筆跡で記された建議書の内容は、看病婦の増員、昼夜二交替制による睡眠確保、婦人矯風会・婦人衛生会への参加による教養向上など、看護教育と待遇改善を求めるものでした。

 しかし、この直談判は医師たちの激しい反発を招く起爆剤となってしまいます。というのも以前から和は医師たちとの軋轢をたびたび起こしていたからです。内科看病婦の髪型を注意して越権行為と責められたり、講習で外科医が不在の際に内科医へ勝手に授業を依頼して不興を買ったり…。

 また、国粋主義的風潮が高まる中、キリスト教的価値観を語る和は反感を持たれやすく、彼女を毛嫌いする医師もいました。

 建議書を受け取った佐藤教授は、和の能力を認めつつも、医局との関係悪化を理由に看病婦取締を解任します。平身低頭して頼み込めば看病婦として残れる可能性もありましたが、和は毅然と第一医院を去りました。明治23年(1890)9月のことでした。

おわりに

 和は本来、女性が男性の上に立つことに否定的な考えを持っていました。教会の女性役員をめぐる議論でも「女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。」という聖書の言葉を根拠に、女性役員に反対していました。それでも上司に直談判したのは、組織改善のため身を挺する覚悟があったからだと考えられます。

 潔く第一医院をあとにした和でしたが、それでも彼女が蒔いた種は小さな形で実を結びました。同年11月、第一医院では看病法講習には試験制度が導入され、成績優秀者には卒業証書が与えられるようになります。

 和の努力は、確かに第一医院の看護教育に影響を与えたのです。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
本好き、映画好き、歴史好きなWEBライターです。好きな作家は山本周五郎、お気に入りの映画は市川崑の「金田一シリーズ」。図書館司書の勉強中「古書」にはまって以来、明治・大正・昭和初期の市井の人々の記録や“ちょっといい話”を掘り起こすことに喜びを感じています。

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