【風、薫る】「笑わない子」だった相馬黒光。新宿中村屋を創った女性の少女時代と家族の悲劇
- 2026/07/14
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黒光は夫とともに店を切り盛りし、日本初のクリームパンや本格インドカレーを世に送り出した実業家として名を残しました。また、若い芸術家や異国の革命家たちを物心両面で支えた、まさに“母”のような存在でもあります。
自由な気風をまとって生きた黒光ですが、少女時代には「笑わない子」と呼ばれるほど陰のある一面もありました。今回は、彼女が遺した自伝『黙移』を手がかりに、相馬黒光の幼き日々をひもといていきます。
アンビシャス・ガールの誕生
相馬良(のちの黒光)は、明治9年(1876)、旧仙台藩士・星家に生まれました。小学校高等科でキリスト教の洗礼を受け、利発で向学心に富んだことから「アンビシャス・ガール」と呼ばれます。宮城女学校、フェリス和英女学校、明治女学校で学び、その鋭い才気を見込んだ恩師・巌本善治から「光を隠せ」という意味を込めて「黒光」の筆名を授かり、生涯愛用しました。明治31年(1898)、長野県穂高で養蚕事業を営んでいた相馬愛蔵と結婚し、信州へ移住します。しかし、地方の古い慣習に馴染めず体調を崩してしまい、夫とともに上京。明治34年(1901)、本郷の小さなパン屋「中村屋」を買い取り、新たな商いを始めました。
良は持ち前の発想力を生かし、明治37年(1904)にシュークリームから着想した日本初の「クリームパン」を考案。人気を集め、事業が軌道に乗った明治42年(1909)には新宿へ本店を移し、芸術家たちが集う「中村屋サロン」を開きます。
大正4年(1915)には、亡命中のインド独立運動家ラース・ビハリ・ボースを匿い、盲目のロシア人亡命者ワシーリー・エロシェンコを保護しました。ボースから伝えられた本場のスパイス使いによる「純インド式カリー」は瞬く間に中村屋の看板となり、エロシェンコとの交流からはボルシチやピロシキなど国際色豊かな料理が生まれています。
実業家としても芸術文化の支援者としても大きな足跡を残した良ですが、私生活は決して順風満帆ではありませんでした。夫・愛蔵の愛人問題に心を痛めた時期があり、9人の子のうち6人に先立たれるという深い悲しみも経験しています。
60歳頃からは相馬黒光の名で作家活動を本格化させ、文筆家としても高い評価を獲得。昭和30年(1955)3月2日、78歳でその生涯を閉じました。
姉・蓮に降りかかった悲劇
「アンビシャス・ガール」と呼ばれた良の生家は、没落士族の例にもれず、生活は困窮していました。さらに東京で遊学していた兄はチフスで亡くなり、弟・文四郎は骨膜炎を患って右脚を付け根から切断するという不運に見舞われます。なかでも良が最も心を痛めたのは、姉・蓮に降りかかった出来事でした。家にまだ経済的なゆとりがあった頃、蓮は上京して叔母・佐々城豊寿(ささき とよじゅ)の家で暮らしていました。穏やかで女らしい性格の蓮は、叔母の紹介で婦人矯風会長・矢嶋楫子(やじま かじこ)の息子・林治定と婚約し、挙式の準備のため桜井女学校の寄宿舎で生活することになります。
蓮は姑となる矢嶋の身の回りの細々した雑務をこなし、すでに嫁ぐ覚悟を固めて挙式の日を心待ちにしていました。しかし、式が迫った10月初旬、突然実家へ戻されてしまいます。理由が分からず、母が実の妹・豊寿に手紙で事情を尋ねても、返ってきたのは不快な内容ばかりで要領を得ず、ただ婚約が破棄されたという事実だけが明らかになりました。
心を病んだ姉と幼い良の苦悩
仙台の家に戻った蓮は、教会で奉仕活動に励み、外見上は以前と変わらない様子でした。ただ、以前にも増して口数が少なくなり、その沈黙が良には気がかりでした。やがて蓮は「東京へ行かせて」と繰り返し訴えるようになります。その願いを母に拒まれたとき、彼女の心の均衡は大きく揺らぎ始めました。
蓮は人目を避けて自室に閉じこもり、突然高らかな笑い声を上げたり、夜通し賛美歌を歌い続けたりするようになります。振る舞いは日ごとに激しさを増し、家族は戸惑いと絶望の中に沈んでいきました。
外へ出ようとする蓮を押しとどめる役目は、幼い良に託されました。
ある晩、蓮は裸足のまま家を飛び出し、髪を振り乱して広瀬川へ向かって走り出します。良は必死に追いかけましたが、13歳の体ではすぐに見失ってしまいました。「町のほうへ行ったぞ」という声を頼りにようやく辿り着いた先で良が目にしたのは、胸元をはだけてうずくまり、子どもたちに石を投げられながら震えている姉の痛ましい姿でした。
また別の日、衣ずれの音に気づいた良は、そっと蓮の後をつけました。門から走り出ようとする姉に近づき、勢いよく杉の生け垣へ押しつけます。大声で母を呼び、駆けつけた母が手にした麻縄で、二人がかりで蓮の腕を縛り家へ連れ戻しました。
この壮絶な体験は、多感な少女だった良を「笑わない子」に変えていきます。宮城女学校時代、教師の一人は良を見て
「あの子はどうして笑わないのだろう。花はどうして美しいのですか、何故おかしいのですかとあの子は言う」(『黙移』)
と不思議がったといいます。
破談の原因は叔母と矢嶋楫子の不和
その後、蓮の婚約が破談になった理由は、叔母・佐々城豊寿と矢嶋楫子の不仲が原因だったらしいと分かってきました。
豊寿と楫子は、日本の女性運動の草分けとして知られ、明治期に女性の権利向上や禁酒・廃娼運動を広めた同志です。明治19年(1886)には「東京婦人矯風会」を設立し、楫子が初代会頭、豊寿が書記として会を支えました。
しかし、二人の間には次第に考え方の違いが生まれます。本来、矯風会はアメリカ発の禁酒運動を母体としていましたが、豊寿は禁酒より廃娼運動に力を注ぎ、その主張を『女学雑誌』に掲載していました。こうした姿勢が楫子との溝を深め、豊寿派と禁酒を重視する楫子派の対立が生まれます。この確執が、蓮の婚約破棄へとつながったのでした。
明治女学校を自主退学した良は、明治25年、17歳でフェリス和英女学校に入学するため上京し、ひと月ほど豊寿の豪邸に滞在します。そこでは、洋装で英語を話し、名士たちに手作りの西洋料理を振る舞いながら政治を語る叔母の姿がありました。
姉の破談が叔母と楫子の不和によるものだと聞かされていた良は、人生を謳歌するように快活に振る舞う豊寿の様子に違和感を覚えます。思い切って真相を尋ねても、叔母は明確な答えを語ろうとはしませんでした。
その後、豊寿は矯風会内で孤立し、東京を離れて北海道へ移ることになります。余談ですが、豊寿の娘・信子は有島武郎の長編小説『或る女』のモデルとなった人物です。
蓮と母の死、そして赦し
蓮が帰らぬ人となったのは、心の病を患ってから十年後のことでした。相馬黒光の自伝『黙移』には、こう記されています。「姉はそうして十年の間狂いに狂い、未来の夫と信じ切った人の名を「林さん林さん」と呼び続け、機嫌の悪い時には矢嶋女史を口ぎたなく罵り呪い、遂に惨めな三十年の生涯を終りました。」(『黙移』)
その三年後、母も蓮の後を追うように亡くなります。
「母は姉を介抱して十年の間悲痛の限りを味わいました。そうして哀れな娘の最後を見とどけてやると、もう精も根も尽き果てて、姉の死のあと間もなく自分も忍従の一生を終りました。十年の間に矢嶋女史からも林氏からも一度の見舞もなかったと聞いております。しかし母は嘗て一言の怨みも洩したことはありませんでした。黙って黙ってつとめて優しく、狂える姉をいたわり通して、そうしてまるで死の彼方までも附添って行ってやったように思われるのでございます。」(『黙移』)
母が亡くなったとき、良は29歳。母の死から30年が過ぎた頃、相馬黒光として『黙移』の執筆に取りかかります。矢嶋楫子はすでに鬼籍に入り、黒光自身も還暦を迎えようとしていました。年齢を重ねたゆえか、黒光は楫子について、
「偉大な人にもこのような性格的の悩みのあったことを懐かしく感じ、人生のあたたかみさえ覚える」
「内気で女らしい一方であった姉が、女史のお気に入らなかったのは仕方のないこと」
と記し、楫子へ恨みを抱いていないと述べています。
一方で、心を病んだ姉と、血のにじむ思いで介抱し続けた母を思うとき、黒光の胸にはどうしても拭いきれない感情が残ったのでしょう。楫子について「難しい人だった」とも記し、彼女の辞意を周囲が真に受けて潮田千勢子を新会長に選んだことで生じた不和を取り上げています。
周囲は適任者の選出を楫子も喜ぶと考えましたが、辞める気などなかった楫子は不満を募らせ、潮田を厳しく責め立てました。本音を語らない楫子の真意を読み取れなかった周囲の判断が、潮田を長く苦しめ、早すぎる死へと追い込む結果となったのです。
「五十を越している潮田さんが、意地悪な姑にいじめられる花嫁のように陰では泣いておられた」(『黙移』)
という一節は、蓮の境遇を思い起こさせます。





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