【風、薫る】「東の慈恵、西の同志社」会津の悲劇が生んだ大山捨松と新島八重の看護への道
- 2026/06/25
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ドラマ『風、薫る』の梅岡看護婦養成所のモデルとなった桜井女学校付属看護婦養成所の設立とほぼ同時期に、有志共立東京病院看護婦教育所や京都看病婦学校も開校しています。これらは後に「東の慈恵」「西の同志社」と並び称される名門校へと発展していきました。
興味深いことに、これら二つの学校の創設には、いずれも会津藩出身の女性が関わっています。大山捨松(おおやま すてまつ)と新島八重(にいじま やえ)。激動の時代を生きた二人は、なぜ看護の道を選んだのか。その歩みをたどります。
籠城戦で目の当たりにした悲惨な看護
大山捨松と新島八重の看護の原点をたどると、会津戦争という壮絶な経験に行き着きます。会津戦争は、慶応4年(1868)に起きた戊辰戦争の最終局面の一つです。新政府軍に追い詰められた会津藩が若松城(鶴ヶ城)に籠城し、過酷な防衛戦を繰り広げました。新政府軍の猛攻の前に、城内はまたたく間に凄惨な戦場へと化していきます。
籠城戦は約1ヶ月にわたり、多くの女性が入城して炊事や負傷兵の看護にあたりました。砲弾が飛び交う中、炊き出し、包帯作り、負傷者の手当てに奔走し、戦場の裏方の任務にあたったのです。
生きるか死ぬかの瀬戸際で精米する時間などあるはずもなく、兵糧は玄米の握り飯でした。大きな釜で炊いた熱々の玄米を火傷に耐えながら握っていきます。
女性や子どもたちには、虫のわいた古い道明寺粉があてがわれましたが、とても口にできるようなものではありません。夜中にこっそりと城を抜け出し、畑から取って来た大根を塩もみにして食べたこともあったそうです。こうした食糧事情の悪さは病気を引き起こし、命を落とす者も少なくありませんでした。
籠城初日から負傷者は後を絶たず、次から次へと血まみれになった兵士が運び込まれました。数人の医師が治療にあたりましたが、すぐに薬も包帯も底をついてしまい、傷の手当てもままなりません。
そればかりか兵士たちの着替えすらなく、血に汚れた服を脱がせ、女物の着物を着せて板の間に寝かせました。痛みにうなり続ける彼らのために唯一できることといえば、水を飲ませることでした。大砲や鉄砲の弾が飛び交う中、女性たちは城外の井戸まで水を汲みに走ります。汚れた包帯を洗って再利用もしました。それでも足りず、着物を切り裂いて包帯をこしらえ急場をしのぎました。こうした極限状態の中、女性たちは必死に看護にあたっていたのです。
女性たちは看護や炊事だけでなく、城を守る役目も担っていました。屋根や障子を突き破って飛び込んできた大砲の弾(焼玉)を濡れた着物や布団でくるみ火を消す「焼玉押さえ」は、まさに命がけの作業でした。さらに彼女たちは弾丸の製造にも従事し、開城までに19万発を作ったといわれています。
敵方の砲撃は日を追うごとに激しさを増し、多くの女性や子どもたちが命を落としていきました。生き地獄のような城内で、死を覚悟して働き続ける女性たちの中に大山捨松と新島八重の姿もありました。彼女たちもまた戦場の現実を目の当たりにしていたのです。そしてこの経験が、後に二人が看護の道へ進む大きな原動力となりました。
アメリカで近代看護を学んだ大山捨松
大山捨松(当時は山川さき)は、わずか8歳にして負傷兵の看護に関わりました。家老職の山川家の女性たちはいち早く鶴ヶ城へ入り、炊事や看護に従事していたのです。ある日、捨松の兄・山川浩(大蔵)の妻・登勢(とせ)が焼玉の処理にあたっていた際、爆発に巻き込まれ瀕死の重傷を負ってしまいます。もがき苦しむ兄嫁は「早く楽にしてくれ」と懇願するのですが、だれにも救う手立てがありません。悲惨な最期を遂げた兄嫁を前に、なすすべもなく立ち尽くしていた8歳の自分を、捨松は生涯忘れることはありませんでした。
会津戦争後の明治4年(1871)捨松は岩倉使節団に同行してアメリカへ留学します。一般家庭に寄宿しながら勉学に励み、ヴァッサー大学を優秀な成績で卒業した彼女は、帰国前の2カ月間ニューヘイブン病院で看護実習を行い、当時アメリカで発展しつつあった看護教育にも触れました。
ナイチンゲールの思想が広まり、看護が専門職として確立し始めた時代です。捨松はこの体験を通じ、日本にも訓練を受けた看護婦が必要だと強く感じるようになりました。
日本初のチャリティバザーと慈恵医院看護婦養成所への貢献
帰国後、陸軍卿(のちの陸軍大臣)の大山巌と結婚し「鹿鳴館の花」とよばれ、社交界の中心人物となった捨松は、「婦人慈善会」のメンバーとなります。婦人慈善会は、伊藤博文や松方正義の妻ら上流階級の婦人たちが結成した慈善団体でした。
この婦人慈善会が協力したのが、「有志共立東京病院看護婦教育所」の設立です。有志共立東京病院は、明治15年(1882)、海軍軍医の高木兼寛(たかき かねひろ)が貧しい人々を救済するための施療病院として創設しました。
ある日、病院の視察に訪れた大山捨松は、正規の看護婦がいないことに驚きます。高木は留学先のイギリスでナイチンゲール看護学校を視察し、専門教育の必要性を痛感していましたが、資金難で看護学校設立に踏み出せずにいたのです。事情を知った捨松は、看護学校設立の支援を申し出ました。
彼女は資金集めに奔走し、アメリカでの経験からバザーの開催を思いつきます。そして自身の所属する婦人慈善会の陣頭指揮を執り、鹿鳴館で大規模なチャリティバザーを実施しました。バザーは入場制限をするほど盛況で、当初の目標だった千円を軽く超え、8千円もの多額の資金を調達しました。
支援金は全額病院に寄付され、明治20年(1887)、わが国最初の看護学校「有志共立東京病院看護婦教育所」が開校しました。同年、母体である有志共立東京病院が皇后から「慈恵」の名を賜り、「東京慈恵医院」と名を改めたのを機に、「東京慈恵医院看護婦教育所」へと改称。アメリカ人宣教看護婦メアリー・リードを招き、本格的なトレインド・ナース養成が始まりました。
卒業生は病院だけでなく富裕層の付添看護でも活躍し、大隈重信襲撃事件での献身的看護は高く評価されています。捨松らの尽力が、日本の近代看護教育の基盤を築いたのでした。
さらに同年、捨松は日本赤十字社の後援団体「篤志看護婦人会」の発起人にも名を連ねています。篤志看護婦人会は日本赤十字社を支えるボランティア組織で、皇族や華族などの上流階級の婦人たちが自ら救護や看護の知識を学びました。日清・日露の両戦争では寄付金集めや包帯作りに従事し、日本の看護活動を支える重要な役割を果たしました。
弟の形見の羽織を身にまとい男装して戦場に立った新島八重
砲術師範である山本権八の娘・八重は、24歳のときに夫・川崎尚之助とともに入城しました。鳥羽・伏見の戦いで戦死した弟の仇を討つため、戦う決意を固めていた八重。弟の形見の羽織袴で男装し、両刀を携え、さらに元込め7連発銃を担いで城に入りました。八重は自ら銃を手にして新政府軍と戦いつつ、女性たちと共に炊事、看護、弾丸作り等に従事。そんな中で彼女が恐れていたのが、厠で砲弾に当たることでした。勇ましく戦う一方で、女性として醜態をさらすことは「最大の恥」と感じていたそうです。
そして生と死が隣り合わせの戦場において、人の命がやすやすと失われていく現実を前に、八重は看護の重要性を深く胸に刻んだのでした。
篤志看護婦として日清日露戦争に従軍した八重
会津戦争後、明治4年(1871)に八重は兄・覚馬を頼って京都へ移り住みます。翌年日本初の女学校・女紅場の教導試補となり、教育者としての道を歩み始めました。その後、八重が運命的な出会いを果たしたのが、キリスト教思想家で同志社の創立者・新島襄(にいじま じょう)です。明治9年(1876)襄32歳、八重30歳のときに二人は結婚し、八重は襄のパートナーとして学校運営を支えました。
新島襄・八重夫妻の活動は教育にとどまらず医療・看護の分野にも及び、明治19年(1886)「京都看病婦学校」を設立します。京都看病婦学校は、新島襄が同志社病院とともに設立した、日本の近代看護教育の先駆けです。
背後にはアメリカの外国伝道団体であるアメリカン・ボードの支援と、医療宣教師ジョン・ベリー、実業家・中村栄助の協力がありました。中村は京都の政財界で活躍しており、資金面で大きな力となりました。
京都看病婦学校では、初代看護監督としてアメリカのリンダ・リチャーズを迎え、ナイチンゲール方式を導入しました。明治21年(1888)には第1回生が卒業し、巡回看護や産婆教育へと活動の幅を広げています。
襄と八重は互いを敬い合う円満な夫婦でしたが、明治23年(1890)1月、襄が48歳で急逝し、14年間の結婚生活は幕を閉じました。
最愛の夫を亡くした八重は、やがて同志社の経営から距離を置くようになります。その背景について、著書『牧師夫人 新島八重』の中で雑賀信行氏は次のように記しています。
「おそらく八重は、どちらかというと「牧師夫人」にも「教育者」にも向いていなかったにもかかわらず、「襄の妻」であることによって、まわりから過剰に求められてきたのかもしれない」(『牧師夫人 新島八重』)
夫が亡くなり、妻・牧師夫人・教育者というすべての看板を下ろした八重は、今度は自分の力で社会の役に立とうと看護の道を選択したのです。
夫の死後3ヶ月が経った明治23年(1890)4月、44歳の八重は日本赤十字社の正社員となりました。明治27年(1894)の日清戦争では、広島の陸軍予備病院へ篤志看護婦の取締りとして40人の看護婦を率いて従軍。その10年後、日露戦争では大阪の陸軍病院で篤志看護婦として傷病兵の看護に従事しています。
篤志看護婦とは、戦時や災害時の救護活動の際、正規の看護婦を補佐し、無償で看護にあたった上流階級の女性たちです。皇族や華族の夫人たちが自ら白衣を身につけ看護にあたることで、賤業と見なされていた看護婦の地位向上に貢献しました。
おわりに
日本赤十字篤志婦人会で理事を務めた捨松と篤志看護婦として活躍した八重は、赤十字の活動を通じて、どこかで再会していた可能性もあります。会津戦争で目の当たりにした凄惨な光景と救えなかった命を思うたび、二人の脳裏には「看護の知識があったら」という後悔と忸怩たる思いが胸をよぎったのかもしれません。「目の前で苦しむ人を救いたい」。その切実な願いが、後に二人を看護の道へと突き動かす原点となったのでした。
ナイチンゲールは、こんな言葉を遺しています。
「過去に起こったことが私たちにはどうしようもないからといって、私たちが現在と未来に対しても無力だということにはなりません」(『ナイチンゲール 心に効く言葉』)

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