【風、薫る】史実の花魁心中事件。男爵夫人が見せた慈悲と、明治の遊女の残酷な現実
- 2026/06/09
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夕凪の心中騒動は、史実である「花魁心中未遂事件」がもとになっており、リンと直美のモチーフである大関和(ちか)さんと鈴木雅さんは、実際にケガを負った花魁のケアにあたっています。
そして、誰よりも遊女に心を寄せ、支えとなったのが、仲間由紀恵さんが演じた和泉侯爵夫人のモチーフとされる三宮男爵夫人・八重野(やえの)でした。
今回は、史実の「花魁心中未遂事件」と三宮夫人の優しさ、そして「公娼制度」や「廃娼運動」など、明治時代の遊女を取り巻く状況について詳しく見ていきます。
(以下敬称略。当時の呼称に従い「看護婦」と表記します。)
国際結婚で日本に帰化したイギリス人女性、三宮八重野
仲間由紀恵さんが演じる和泉侯爵夫人のモチーフは、男爵三宮義胤(さんのみや よしたね)の妻、八重野です。
三宮義胤は幕末に尊王攘夷派の志士として名を馳せ、明治維新後は宮内省で活躍した人物です。その功績により、明治29年(1896)6月には、男爵に叙せられています。
義胤は渡欧中に英国の生地商ウィリアム・レイノアの娘アレシーアと出会い結婚。明治13年(1880)に夫とともに来日したアレシーアは名を八重野と改め、皇族や華族の女性たちと交流し、洋装や社交マナーの助言役を務めました。
三宮夫人は社会奉仕にも熱心で、発起人になった「東京演劇音楽協会」の公演収益を慈善団体に寄付したり、日露戦争時には赤十字病院を訪れ、負傷兵を慰問したりしました。
彼女が特に力を注いだのが震災孤児の支援で、義援金やバザーを開いて集めた資金を元に孤児院を設立しています。三宮夫人は、困窮する人々に寄り添う温かな心をもった女性でした。
史実の花魁心中未遂事件と三宮夫人の深い思いやり
明治21年(1888)4月、夫人は乳がんの手術のため、大関和たちが実習を行っている帝国大学医科大学第一医院に入院します。英語ができる和が付添婦に選ばれ、毎日朝6時から夜8時まで夫人に寄り添いました。
特別室の病室には銀器が並び、皇后の名代が護衛を伴って見舞いに訪れ、宮中から梅の古木が下賜された際には、病院中が騒然となったといいます。和は次のように語っています。
「何を申すにも宮中の御信頼も厚い、世に時めく三宮夫人のことですから、 おそばで勤めるにも、ハラハラしまして、全く痩せる思いでした」
ある日、根津の八幡楼の花魁・花紫が心中未遂を起こし、病院に運び込まれました。刃物でのどを突いたものの死にきれなかったのです。
花紫の話を聞いた三宮夫人は深く同情し、和に菓子や花を託して「キリスト教の教義の上から導いておやりなさい」と伝えました。和が見舞いの品と夫人の想いを届けるたび、花紫は涙を流し、感謝したといいます。
その後、楼主が証文を破棄し、花紫は自由の身となりました。退院の日、花紫は和のもとを訪れ「これからは決して男をだますようなことはいたしません」(『明治百話 上』)と告げ、晴れやかな表情で病院を後にしました。この出来事は、和が公娼制度の問題に目を向ける転機となったのでした。
諸外国へのアピールに過ぎなかった「芸娼妓解放令」
江戸から明治に移っても、遊郭で身を売る女性たちは牛馬のように金で買われ、楼主の所有物として過酷な環境で働かされていました。
そんな女性たちに大きな変化をもたらしたのが、明治5年(1872)10月に発令された「芸娼妓(げいしょうぎ)解放令」です。
発令のきっかけは、同年に起きたマリア・ルス号事件でした。マリア・ルス号事件は、横浜に入港したペルー船の苦力(クーリー)を奴隷であるとして、日本政府が解放した事件です。
日本初の国際裁判で、政府は勝訴したものの、審理の過程で日本の芸妓や娼妓も人身売買に当たると指摘されてしまいます。
痛いところを突かれた政府は国際世論を考慮し、慌てて「芸娼妓解放令」を出したのです。これは人身売買を禁じ、芸娼妓を「解放」しようとするもので、人身売買によって背負わされた芸娼妓たちの借金返済義務の撤廃も盛り込まれていました。
しかし、その実態はあくまで諸外国への体面を保つためのもので、売春を禁じるものではありません。政府の真の狙いは、芸娼妓の解放ではなく、公娼制度の維持と梅毒対策の検査制度の整備にあったのです。
国家が買売春を支えた「公娼制度」
明治政府は、芸娼妓解放令と同時に、遊女本人の希望と届出によって売春の営業許可証(鑑札)を交付する鑑札制度を導入します。
鑑札を受けた女性は国から売春を許可された「公娼」とみなされ、「私娼」と区別されました。また公娼には納税と性病検査が義務付けられ、府県や警察の管理下に置かれるようになります。
結局、芸娼妓解放令が出ても売買春はなくならず、解放されても帰る場所のない女性や貧困に苦しむ女性たちは「貸座敷」と名を変えた遊女屋で働き続けました。
貸座敷とは、遊郭の新しい形態です。各府県の「貸座敷渡世規則」により、遊郭は自由営業の娼妓に座敷を貸して客を取らせる場とされ、営業者には鑑札料が課されました。
これによって、江戸時代からの公認遊郭だけでなく、飯盛女を置く旅籠や私娼街も免許を受けるようになり、貸座敷の指定地域が広がっていきました。
つまり、明治以降の公娼制度は、女性が自ら娼妓になると願い出て免許を受け、政府公認の貸座敷業者から部屋を借りて体を売るという形となったのです。
しかし、実際には娼妓たちは貸座敷業者が本人や親に貸し付けた前借金によって拘束されており、旧来の仕組みがそのまま残っていたことは言うまでもありません。
また、かつては家計を助ける親孝行な存在と見られていた娼妓たちが、「自分の意思で売春している」という建前によって、世間から冷たい目を向けられるようになりました。
明治時代の廃娼運動と東京婦人矯風会
明治期の公娼制度は形式上「自由意志」に基づく契約とされ、娼妓は自ら廃業できるはずでしたが、前借金や複雑な手続きが障壁となり、廃業は容易ではありませんでした。
このような状況を変えようと立ち上がったのが、廃娼運動家たちです。
初期の廃娼運動では、制度撤廃を求める廃娼論者と公娼制度維持を主張する存娼論者が激しく対立しました。
その後、明治33年(1900)の「娼妓取締規則」で娼妓の自由廃業が認められたことと、函館の娼妓が廃業を求めた訴訟で勝訴したことが追い風となり、全国で廃娼運動が活発化します。
特にキリスト教団体・救世軍などの働きかけが大きな成果を上げ、廃娼運動は社会を動かす潮流へと発展しました。
しかし、廃業して遊郭を離れても、身を寄せる場所も就ける仕事もなく、再び遊郭へ戻らざるを得ない女性は少なくありませんでした。
こうした現実に向き合い、廃娼運動の中で女性保護に力を注いだのが、東京婦人矯風会(後に日本キリスト教婦人矯風会に改組)です。
矯風会は明治19年(1886)、桜井女学校校長・矢島楫子(やじま かじこ)を中心に発足した団体で、キリスト教の精神に基づき、禁酒や一夫一婦制、公娼制度廃止を目標に掲げ活動していました。
桜井女学校の看護婦学校出身の大関和たちも、矯風会の活動に深く関わっています。
和は新潟で行われた廃娼運動の演説会に参加したり、集会で歌を作って披露したりといった活動を行い、さらに廃業した娼妓たちが看護婦として自立できるよう支援しました。
大関和たちが関わった女性保護施設「慈愛館」
明治27年(1894)、矯風会は東京の大久保百人町に廃業娼妓の救済施設「慈愛館」を建設し、大関和も委員として参加することになりました。
慈愛館では収容限度を5年という長期にして衣食住を保証し、読み書きや裁縫、農作業などの技能を教え、廃業した娼妓が自立できる環境を整えました。
一方で、矯風会は娼妓を「醜業婦」「賤業婦」と呼んで蔑視する側面も持ち、後に与謝野晶子や伊藤野枝らから批判を受けています。
それでも、行き場を失った女性たちに生活と学びの場を提供し、自立への道を開いた矯風会の活動は、廃娼運動において重要な役割を果たしたといえるでしょう。
慈愛館は、職業訓練の一つとして看護婦養成にも力を入れていました。角筈(現在の西新宿)に建設された療養所・衛生園に付属する看護婦養成所の第1期生8名は、いずれも慈愛館で暮らす女性たちでした。
おわりに
苦界に身を沈めた女性が、自ら新しい人生を切り開くのは、決してたやすいことではありません。しかし、慈愛館で育まれた強い意志が、彼女たちを過去から解き放ち、前へ進む勇気を与えたのでしょう。こうした「意志」の力について、ナイチンゲールは次のような言葉を残しています。
「意志の源は感覚、思考、感情、精神状態で、それらは状況によって変化するものです。適切な状態をつくり出すことによって、人は正しい意志を手に入れることができるのです。」

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