【風、薫る】モデル・桜井看護学校の閉鎖理由に迫る!ナイチンゲール方式を日本に伝えた3人の女性

  • 2026/06/16
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 NHK朝ドラ『風、薫る』では、帝都医大病院(モデルは現在の東京大学医学部附属病院)に看護科が新設されることになり、梅岡看護婦養成所は閉所に追い込まれてしまいました。実は史実でも、梅岡看護婦養成所のモデルとなった桜井女学校附属看護婦養成所(以下、桜井看護学校)は、明治21年(1888)、第一期生を送り出したところで閉鎖しています。

 今回は、桜井看護学校が閉鎖に至った経緯と、看護婦という新しい職業の必要性を信じて養成に尽力した女性たちの歩みをたどります。

桜井看護学校はなぜ閉鎖になったのか?

 明治21年(1888)10月、桜井看護学校の経営を担うマリア・ツルーのもとに、アメリカの伝道協会から看護学校閉鎖の決定通知が届きました。閉鎖理由は、財政難と実習用の病院の確保ができないことでした。

 女学校に付属する施設として開設された桜井看護学校には附属病院や系列病院がなく、学生の臨床実習先を用意することができませんでした。そのため、第一期生は帝国大学医科大学第一医院(現在の東京大学医学部附属病院の前身。以下、帝大第一医院。)で教鞭を執ることになったアグネス・ヴェッチと同時に同大学へ送り込み、いわば「抱き合わせ」の形で実習先を確保しました。

東京大学医学部(『東京帝国大学五十年史』より)
東京大学医学部(『東京帝国大学五十年史』より)

 しかし、1年間の実習期間が終わり、アグネスが伝道先の香港に戻ることになったため、帝大第一医院での実習生の受入れは取り消されてしまいます。この事態を知ったアメリカの伝道協会は、継続的な学校運営は困難と判断し、閉鎖を決定したのです。

 皮肉にも閉鎖決定通知が届いたのは、桜井看護学校第一期生6人の修了式の日でした。

「リディア・バラ」桜井看護学校を構想

 桜井女学校の看護学校構想は、宣教師リディア・バラの志から始まりました。

 明治6年(1873)に来日したリディアは、横浜で貧民救済に携わります。開国以来、横浜では置き去りにされた混血児が厳しい生活を強いられており、問題解決のためアメリカの女性宣教師たちが来日したのです。

 リディアもその一人で、「アメリカン・ミッションホーム」(現・横浜共立学園)や夫とともに開いた「バラ塾」で教師をしていました。

 彼女は救済活動をするうちに、病に苦しむ人々を支える看護婦の必要性を痛感するようになります。

 さらに、自身も重い肺炎にかかって闘病生活を送ったことで、その思いはいっそう強まりました。そのときの様子が、『明治百話』に記されています。

明治16年女宣教師ジョン・バラ夫人が横浜で御病気になられて、寝台に横臥しながら医師に向って「どうか看護婦を一人お世話下さいまし」と申されたら、医師が、「看護婦なんかまだ日本にありません」と答えた。

 夫人は非常に失望されて「永らく病床にあって、病中のたよりとするものは看護婦です。…(中略)…看護婦が日本にないとは、何たる心細いことでしょう。医術がいかに開けても、看護婦のない国は、病人の不幸です、よろしい、私が看護婦を養成しましょう、そして伝道の助けにいたしましょう」
『明治百話』より

 この医師とは、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ジェームス・カーティス・ヘボンです。

ジェームス・カーティス・ヘボンの肖像(パブリックドメイン)
ジェームス・カーティス・ヘボンの肖像(パブリックドメイン)

 ヘボンの言葉に発奮したリディアは、看護学校の設立を思い立ちます。彼女は寄付を募るために渡米し、各地を遊説して回りました。しかしその無理がたたったのか、1884年に54歳で亡くなりました。

「マリア・ツルー」リディアの意思を継ぎ、桜井看護学校を設立

 リディアの遺志を継いだのがマリア・ツルーです。

マリア・ツルーの肖像(パブリックドメイン)
マリア・ツルーの肖像(パブリックドメイン)

 マリアは桜井女学校の経営管理を担当していました。桜井女学校は、教育者・桜井ちかが私塾として開いた学校で、彼女が夫とともに北海道に去った後は、アメリカ長老教会が経営を行っていました。

 リディアと旧知の仲であり、桜井女学校の経営に携わっていたマリアは資金集めに奔走し、渡米。アメリカ女性伝道協会からの援助を取りつけ、常任委員会の同意までこぎつけました。

 ところが、「看護学校の設立には莫大な費用がかかる」として反対する勢力が立ちはだかります。中でも強く反対したのが、ヘボンたち男性宣教師でした。

 ヘボンらによる反対勢力へ対抗するため、マリアは亡きリディアの遺志に賛同してくれたフィラデルフィア女性外国伝道協会とともに学校設立にかかる具体的な経費を計算します。そして自分たちが考えている看護学校は、ヘボンの試算よりも少ない小規模な学校であることを示しました。

 こうして桜井女学校の付属施設として、桜井看護学校は設立されました。小さな学校の第一期生は6人で、ドラマ『風、薫る』の主人公りんと直美のモチーフ・大関和や鈴木雅もその中に名を連ねています。

 しかし、経費を抑えたため附属病院を持てず、学生の実習先を確保できないという課題が残りました。また、マリア自身が看護資格を持たなかったため、看護教育ができる教師を招く必要がありました。

「アグネス・ヴェッチ」看護教育のスペシャリスト

 教師の職に白羽の矢が立ったのが、かつて桜井女学校で英語を教えていたアグネス・ヴェッチです。彼女は、ドラマ『風、薫る』のバーンズ先生(エマ・ハワード)のモチーフとされています。

アグネス・ヴェッチ(前列中央)と大関和(前列右より二人目)(パブリックドメイン)
アグネス・ヴェッチ(前列中央)と大関和(前列右より二人目)(パブリックドメイン)

 アグネスは、スコットランドの旧エディンバラ王立救貧院病院看護学校の一期生として専門訓練を受けています。実際に看護婦として働いた経験ももつ彼女は、ナイチンゲール方式の看護教育を行える貴重な存在でした。マリアは香港で伝道中だったアグネスを、1年間の契約で招聘します。

 明治20年(1887)、アグネスが赴任すると、その知らせを聞いた帝大第一医院が、彼女を看護教師として招きたいと申し出ました。帝大第一医院はトレインド・ナース養成のため講習科を設立したばかりで、アグネスの専門性を強く求めていたのです。

 最終的にアグネスは桜井看護学校と帝大第一医院を兼務することとなり、マリアが医院と交渉した結果、桜井看護学校の生徒は帝大第一医院で実習を受けられるようになりました。実習先の病院を持たない学校にとって、これは大きな前進でした。

 当時、有志共立東京病院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)や同志社の京都看病婦学校でも外国人教師がナイチンゲール方式の教育を導入しており、日本の看護教育は大きな転換期を迎えていました。アグネスの存在は、その変化を象徴するものでした。

 大関和たち桜井看護学校の第一期生6人は学校の寮を出て、寄宿舎でアグネスと共同生活を送ることになります。こうした密接な共同生活自体も、ナイチンゲール方式の看護教育の一環だったのです。

 アグネスは40代前半で、日本語の通訳は鈴木雅が担当しました。雅は結婚前に横浜のフェリス・セミナリー(現・フェリス女学院)で2年間英語を学んでおり、英語が堪能でした。 そんな雅について、アグネスは看護婦としての資質はもちろん、指導者としての人格も備えていると高く評価しています。

 アグネスの指導のもと実習を重ねた看護学生は、明治21年(1888)10月、無事修了試験に合格しました。桜井看護学校の6人と帝大第一医院の22人、合わせて28人のトレインド・ナースが誕生したのです。

 学生も学校関係者も喜びに包まれる一方で、アグネスは契約満了により退任することになり、桜井看護学校は帝大第一医院での実習を続けられなくなってしまいました。

 その結果、アメリカ伝道協会は桜井看護学校の閉鎖を決定します。反対勢力を避けるため小規模に設立された学校でしたが、実習先の喪失は深刻な問題だったのです。

 第一期生の和や雅たちは、卒業時に十件もの採用依頼が寄せられるほど期待されていました。それだけに、実習先を確保できないという理由で学校が閉鎖される事実は、あまりにも残酷なことでした。

おわりに

 桜井看護学校は大関和たちの卒業とともに廃止されてしまいましたが、マリアは諦めず、看護教育の未来を信じて、新たな学校設立のため奔走しました。

 彼女はアメリカへ渡り、大富豪モリス夫妻から資金提供を得て帰国したのち、角筈(現在の西新宿)に二階建ての洋館「衛生園」を建設しました。

 しかし、衛生園は病気予防を重視した先進的な施設だったため開業許可がおりず、マリアは志半ばで逝去します。大関和は新潟から駆け付け、衛生園に入院していたマリアを3カ月間看護し、最期を看取りました。

 マリアの存在は、和の人生にも大きな影響を与えました。和は牧師・植村正久から桜井看護学校への入学を勧められたものの、当時は看護婦が賤業と見なされていたため、その道に進むことをためらっていました。

 そんな和を横浜の貧民救済に同行させ、看護の必要性を体感させたのがマリア・ツルーでした。マリアは、和を看護の道へと導いた人物だったのです。

【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
本好き、映画好き、歴史好きなWEBライターです。好きな作家は山本周五郎、お気に入りの映画は市川崑の「金田一シリーズ」。図書館司書の勉強中「古書」にはまって以来、明治・大正・昭和初期の市井の人々の記録や“ちょっといい話”を掘り起こすことに喜びを感じています。

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