【豊臣兄弟!】激突!羽柴秀吉と柴田勝家 賤ヶ岳の戦いはこうして始まった

  • 2026/08/24
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第32回は「賤ヶ岳の決闘」。

 天正10年(1582)10月、羽柴秀吉は亡き主君・織田信長の葬儀を京都大徳寺にて主催します。織田信雄(信長次男)と織田信孝(信長3男)の政治対立が深まる中、次秀勝(信長5男で秀吉の養子)を喪主とし、葬儀を主催することで「織田家新体制」(信長の孫・三法師を当主とし、それを織田家の4宿老=柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興が支える)の主導権を握ろうとしたのでした。しかしそれは、秀吉と織田信孝、信孝と結び付く柴田勝家(織田家宿老)や滝川一益との対立を決定的なものとします。

【豊臣兄弟!】羽柴秀吉が信長亡き後の織田家の主導権を握るために行なったこととは?

 秀吉は丹羽長秀や池田恒興らを味方に付けることに成功していましたので「織田家新体制」は早くも秀吉・丹羽・池田と柴田とに分裂することになりました。三法師は岐阜の織田信孝の手中にありましたが、それに対抗するため、秀吉は新たな策を講じます。織田信雄を三法師の名代としての織田家当主に擁立したのです。秀吉と勝家は同年11月上旬に一旦和睦しますが、それは長続きせず、すぐに瓦解。11月末には軍事抗争が勃発しました。

 秀吉は三法師を信孝の手から奪還し、信雄を安土城に迎え入れるべく、美濃国に向けて出陣します(信雄もまた出陣しています)。秀吉が信孝が籠る岐阜城を包囲すると、信孝はあっさりと降伏します(越前国の柴田勝家は深雪により救援に赴くことができませんでした)。信孝は三法師を手放し、人質まで出して信雄と秀吉に屈服したのです(12月21日)。信雄と三法師は安土城に入り、信雄が織田家当主として君臨することになりますが、柴田勝家や滝川一益らの抵抗は必至でした。

 天正11年(1583)2月には滝川一益討伐のため、秀吉は伊勢に向けて進軍。滝川救援のために柴田勝家が北近江に出兵してきますが、すぐに交戦することはありませんでした。4月になると雌伏の時を過ごしていた織田信孝が岐阜で挙兵。秀吉はすぐに美濃に出陣します。秀吉軍の多くが美濃に進軍した隙をついて、柴田方は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の羽柴軍を攻撃(4月20日)。羽柴方の中川清秀が討ち死にしました。賤ヶ岳の戦いがこうして始まったのです。

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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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