【豊臣兄弟!】羽柴秀吉が信長亡き後の織田家の主導権を握るために行なったこととは?

  • 2026/08/19
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第31回は「これで、お別れにございます」。

 天正10年(1582)6月下旬の清洲会議により、織田信長亡き後の織田家の在り方が決定されます。それは幼少の三法師(信長の孫。信忠の子)を新たな織田家当主とし、幼少の当主を織田家の宿老(柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉・池田恒興)が支えるという「集団指導体制」でした。三法師の「名代」には信長の子供たち(信長次男の信雄や三男の信孝)がなるのが本来ならば適当でしたが、名代の座を巡り抗争が起きることを避けるため、名代は置かれませんでした。

 しかし、織田信雄・信孝兄弟の対立は避けられません。先ず、三法師は美濃国岐阜城の織田信孝のもとに置かれます。焼失した近江安土城が再建されるまでということでしたが、信孝は三法師を手中にすることにより、三法師の事実上の名代として振る舞おうとしたのです。

 信長の後継者の如く振る舞おうとする信孝に兄・信雄は当然、反発します。秀吉は信孝の動きを危惧し、任されていた安土城の再建を急ぎました。秀吉は清洲会議の際の所領配分により山城国を得ますが、そこに山崎城を築城しようとします。信孝はそれを秀吉が天下の支配を主導せんとしているとして非難。信孝は宿老の柴田勝家と結び付いて、秀吉に対抗していくことになります。

 秀吉もまた織田政権の主導権を握るため、亡き主君・信長の葬儀開催を図りました。秀吉は信長5男(4男との説もあり)で自身の養子・次秀勝を喪主として、天正10年10月15日、京都大徳寺にて信長の葬儀を盛大に開催します(秀吉の弟・秀長は葬儀の警固を担います)。喪主の次秀勝は信雄や信孝の弟に当たります。本当ならば次秀勝ではなく、信雄か信孝が喪主となるべきなのですが、前述のように両者は対決姿勢を強めていました。よってどちらかを喪主とすることもできません。しかしそれではいつまでも信長の葬儀は行えない。そこで秀吉は信長の息子で養子となっていた次秀勝を喪主として、葬儀を取り仕切ることで織田家内の主導権を握ろうとしたのです。

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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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