織田家はなぜ秀吉の家臣に?──実は決まっていた後継者と内部分裂、主従逆転に至るまでの全内幕

  • 2026/07/15
清洲会議で三法師を担ぎ上げる秀吉(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
清洲会議で三法師を担ぎ上げる秀吉(『絵本太閤記』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により思わぬ形でその生涯を閉じた織田信長。しかし、信長の急死によって織田政権がただちに、そして速やかに解体していったわけではありません。

 では、織田政権はどのように終焉を迎え、羽柴秀吉はどのような経緯で豊臣政権を樹立していったのでしょうか。その歴史の裏側と、近年の研究から見えてきた実像について詳しく紐解いていきます。

山崎の合戦:総大将は織田信孝だった

 当時、秀吉は播磨(従属した備前宇喜多家に譲渡された西部の赤穂・佐用両郡を除く)・但馬・因幡の国々を領国として掌握し、姫路城を居城としていました。また、備前・美作の各国と伯耆国東部の従属国衆に対しては、軍事指揮と政治的後見を意味する「指南」を務める立場にありました。信長の重臣の一人として、安芸毛利氏攻めの実質的な責任者という大任を任されていたのです。

 本能寺の変が起きた際、秀吉は毛利方の備中高松城を包囲していました。信長自害の報に接したのは、本能寺の変の翌日である6月3日の深夜とみられています。秀吉がこれほど早く急報を得られたのは、信長の中国出陣に備えて、事前に畿内との情報網や道中の街道を整備していたためと考えられます。

 急ぎ毛利家との和睦交渉に動いた秀吉は、翌4日に誓紙を交わして和睦を締結。5日には明智光秀を討つべく、速やかに進軍を開始しました。いわゆる「中国大返し」と呼ばれる驚異的なスピードの撤退劇ですが、これも先述の通り「畿内との情報網や街道の整備」がなされていたからこそ実現可能であったと、近年指摘されています。

備中高松城からの進軍ルート(中国大返し)
備中高松城からの進軍ルート(中国大返し)

 その後、織田信孝(信長三男)や丹羽長秀の軍勢と合流した秀吉は、6月13日、山崎の地で光秀の軍勢と衝突しました。一般的に山崎の戦いは「羽柴軍 vs 明智軍」というイメージが強いですが、この戦いの総大将を務めたのは織田信孝です。つまり、事実上は「織田軍 vs 明智軍」であり、織田政権としての信長の弔い合戦を果たしたといえます。

 秀吉はあくまで織田政権の宿老(重臣)の1人として、この戦いに参加していたのです。

「山崎の戦い(1582年)」明智光秀と羽柴秀吉の運命を決めた天下分け目の戦い

清須会議と賤ヶ岳合戦:織田政権の内部分裂

 山崎の合戦は織田軍の勝利に終わり、敗走した光秀は落人狩りによって命を落としました。信孝や秀吉らの軍勢は、京都へ入った後に織田信雄(信長二男)と合流。近江・美濃両国の明智方勢力を平定しつつ、尾張の清須城(清州城)へと入りました。

 この清須城には、信長の嫡孫である三法師(のちの織田秀信)が避難していました。三法師は天正8年(1580)生まれで、当時は数え年でわずか3歳。本能寺の変で父の織田信忠(信長嫡男)も命を落としていたため、実質的な後継候補でした。

 天正10年(1582)6月27日、この三法師がいる清須城で開催されたのが、かの有名な「清須会議」です。

 この会議の議題について、従来の見解では以下の2点とされてきました。

  • 信長の後継者を誰にするか
  • 織田家の遺領配分をどうするか

 しかし近年の見解では、信長の後継者はすでに三法師に決まっており(だからこそ三法師の避難先である清須城が会議の場に選ばれた)、真の争点は「幼少の三法師が成人するまでの名代(代理人)を誰にするか」であったとされています。そして、この「名代」の座をめぐって信雄・信孝の兄弟が大いに揉めることとなりました。

 このままでは織田政権が分裂しかねないため、清須会議では二人のどちらも名代とはせず、三法師を補佐する4人の宿老(柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興)によって政権を運営していく体制を整えました。

政権内の対立激化と合戦へ

 しかし、会議後の主導権争いが火種となります。三法師は安土城の修築が完了するまで、叔父・信孝が城主を務める岐阜城に滞在することになりました。三法師を手中に置いた信孝は、これを足掛かりに政権の主導権を握ろうと画策します。この動きに対し、兄の信雄に加え、秀吉、長秀、恒興らが反発。一方、かねてより秀吉と対立していた柴田勝家は信孝を支持しました。

 やがて秀吉・長秀・恒興らは信雄を「名代」として擁立し、政権運営を主導し始めます。同年11月、信雄・秀吉方と信孝の間で軍事衝突が勃発(勝家は豪雪のため北陸から動けず不参戦)。12月には信孝が敗北し、降伏に追い込まれました。

 こうして三法師を確保した信雄は、天正11年(1583)1月に安土城へ入り、名代としての本格的な活動を開始します。織田政権は信雄を名代とし、それを補佐する秀吉・長秀・恒興らによる運営体制として再始動したのです。

 しかし、この体制に不満を募らせる柴田勝家は、雪が解けた3月に挙兵。これに対し、秀吉は越前から進出してくる勝家軍に備え、近江国(滋賀県)へと出陣します。勝家軍は近江国柳瀬(現:滋賀県長浜市余呉町)に、秀吉軍は木之本(同木之本町)に布陣し、両軍は厳しく対峙しました。

 4月に入ると、再起を図る岐阜の信孝が勝家方に同調して挙兵します。秀吉はこれを討つべく、急ぎ美濃の大垣城へと向かいました。この秀吉不在の隙を突き、柴田方の猛将・佐久間盛政が木之本の羽柴方の陣に猛攻を仕掛け、中川清秀らが討死する激戦となります。

 報せを受けた秀吉は、驚異的な速度で木之本へと引き返し(美濃大返し)、4月21日に勝家との決戦に及びました。これが有名な「賤ヶ岳合戦」です。戦いは秀吉側の勝利に終わり、敗走した勝家は居城の越前北庄城で自刃。信雄の攻撃を受けて再び敗れた信孝も、自刃へと追い込まれました。

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小牧長久手の戦いと主従逆転

 賤ヶ岳合戦の勝利によって、織田政権は「三法師の名代である信雄を、宿老の秀吉が全面的に補佐・主導する」という構図で進められることとなりました。

 秀吉は信雄を補佐しつつ戦後処理を進め、織田家諸将との関係を急速に強化。実質的に彼らの上に立つ地位を築いていきました。その影響力は、すでに同じ宿老であった丹羽長秀や池田恒興を凌駕するものだったとみられます。

 一方の信雄は、戦後処理によって北伊勢長島を獲得し、尾張・伊勢・伊賀三郡を支配する領国大名となりました。長島城を居城とした信雄は、領国内で検地を本格化させ、銭を基準とする「貫高(かんだか)制」に基づく統一的な知行・賦課体系の整備を進めています。

 しかし、この信雄の領国経営に熱心な姿勢は、周囲の諸将からは「三法師の名代としての”天下の政務(中央政界の政務)”を疎かにし、自領の経営ばかりを優先している」と映ってしまいました。

 こうした不満から、長秀や恒興ら諸将の間で、領国経営に専念する信雄に代わり、秀吉に対して「中央政務の主導」を求める動きがでてきます。この期待に応える形で、秀吉は天正11年(1583)8月頃から独自の朱印を用い、諸将を動員して大坂城の築城(普請)を開始。安土城に代わる新たな政治の中心地を整備し始めました。

 さらに秀吉は、信雄の判断(裁可)を仰ぐことなく独自に中央政務を執り行うようになり、信長の後継者たる「天下人」としての姿勢を明確にしていきます。ここに、秀吉は織田家に代わって「天下」を統治する地位を確立し始めたといえます。

 その後、秀吉は信雄に対しては尾張や伊勢などの「地方の統治」に専念させ、三法師を坂本城へと移すなどして、信雄を中央政務から段階的に排除していきました。これによって、両者の関係は悪化します。

 そして天正12年(1584)3月、信雄は徳川家康と連携して、秀吉に対抗する姿勢を鮮明にしました。これを契機として、同年11月まで続く大規模な動乱「小牧・長久手の戦い」が勃発したのです。

「秀吉 VS 信雄・家康連合」となった小牧・長久手の戦い
「秀吉 VS 信雄・家康連合」となった小牧・長久手の戦い

小牧・長久手の戦いの実態

 この戦いは、信雄の領国である尾張・伊勢を中心に広範囲な地域で展開され、戦局は一進一退で推移しました。局地戦である「長久手の戦い」では羽柴方が敗北を喫したものの、戦争全体としては、兵力と兵站(物資供給力)に優る秀吉側が優勢を維持します。羽柴方が伊勢方面の攻略を推し進めるにつれ、信雄・家康側は徐々に追い詰められていきます。

 そして11月、持ちこたえられなくなった信雄は、ついに秀吉との単独講和に踏み切ります。領土の割譲と人質の提出を受け入れ、事実上の降伏となりました。大義名分(織田家救済)を失った家康もこれに従って講和に応じ、小牧・長久手の戦いは終結しました。

 後世の江戸幕府による評価の影響で、この戦いは「家康の勝利」と語られる傾向もありますが、近年では「織田政権内部の主導権争い」という観点から、最終的な勝者は秀吉であったと評価されるようになりました。この勝利により、秀吉と信雄の主従関係は完全に逆転し、秀吉は名実ともに信長の後継者としての地位を確立しました。

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おわりに

 秀吉は織田家が完全に自らに臣従したことを天下に示すため、信雄に対して上洛を求めます。これに応じた信雄は、天正13年(1585)2月に大坂城で秀吉に拝謁。これにより織田家は、秀吉に従属する一大名に位置づけられました。

 その直後の3月、秀吉は従二位内大臣に昇進し、朝廷の官位上でも織田家を完全に凌駕する存在となります。ここに、信長以来の「織田政権」は終焉を迎え、秀吉を頂点とする中央政権、すなわち「豊臣政権」が誕生したのです。

 なお、秀吉が関白に任官するのは同年7月、そして宿敵であった徳川家康が豊臣政権に臣従を誓うのは、翌天正14年10月の出来事になります。

【参考文献】
《 編集部ピックアップ 》

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  この記事を書いた人
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。 ※旧ペンネームは yujirekishima

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