「亡き上様の遺志はわしが継ぐ!」信長の大葬儀を強行した秀吉の“見せつけ”天下取り
- 2026/08/13
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信長の遺体が見つからなかったこと、家督を継いでいた嫡男・信忠も自刃しており後継問題や領地問題で織田家の統制が不安定であったこと、仏教勢力と対立していた信長の葬儀をどの宗派で行えばよいのか判断できなかったことなど、諸々の理由があったと言われています。
そして、その隙を突いたのが羽柴秀吉です。
信長の悲報に駆けつける秀吉
天正10年(1582)、武田勝頼を破り武田家を滅亡させた織田信長は、中国に羽柴秀吉、淡路・四国には織田信孝(※四国征伐の総大将)を遣わし、自らも四国へ出陣するために上洛して京都の本能寺に入ります。中国ではすでに秀吉が備中高松城攻めに取り掛かっており、明智光秀はその援軍に加わるはずでした。しかし、光秀はその中国へ向けるはずの軍勢を本能寺へと向け、主君・信長に襲い掛かります。これが6月2日の未明に起きた「本能寺の変」です。秀吉がその知らせを受けたのは、2日の夜とも3日とも、あるいは4日になってからとも言われています。ここから「中国大返し」を決行した秀吉は、11日には早くも尼崎に到着。弔い合戦の準備もぬかりなく進め、13日の山崎の戦いで光秀軍を破ります。光秀は居城である近江坂本城を目指して落ち延びる途中、伏見小栗栖(おぐるす)で土民の手にかかり、悲惨な最期を遂げたとされています。
ここまででも秀吉の動きは十分に早かったのですが、この後もまるで筋書きが決まっていたかのように素早く行動します。清須会議で信長の嫡孫・三法師を立ててその場を取り仕切り、覇権奪取の手筈を整えましたが、彼にはまだ最後の仕上げが残っていました。
縁者がそれぞれに行った弔事
本能寺の焼け跡からは黒焦げになった遺体が何体も見つかりましたが、どれが信長であるかは特定できませんでした。光秀は信長を討った証しが欲しいと必死に探し回りましたが、ついに見つけることはできませんでした。小瀬甫庵の『甫庵信長記』には、次のようにあります。「御首を求めけれど更に見えず。光秀深く怪しみ恐れ士卒に命じて訊ねさせけれど骸骨と思しきさえ見えざりつる」
遺体を持ち出したという話も無くはありません。信長と親交のあった阿弥陀寺の住職・清玉上人は、事変を知ると僧侶20人ばかりを連れて合戦中にもかかわらず駆けつけます。織田方の武士数人が信長の遺体を焼いている場に出くわしたため、「当寺で供養する」と言って遺体を引き取り、森蘭丸らの分とともに墓を作って祀ったという話です。
信長の遺骸が発見できず、亡くなった確証もないまま、変から4日後の6月6日には側室・お鍋の方によって弔事が行われました。お鍋の方は信長が最後に迎えた側室で、安土城の奥向きを切り盛りしていた人物です。織田家の菩提寺である岐阜・崇福寺で信長の遺品を祀り、位牌を安置させました。これが最も早い弔いです。
1ヶ月が経った7月3日には、三男・信孝が焼け跡の遺骨や残された太刀を納め、本能寺を信長の墓所と定めましたが、葬儀を行った記録はありません。
8月18日には信長の乳母・養徳院が京都妙心寺で百箇日法要を行います。
9月11日には信長の妹・お市の方が主催する百日忌が、同じく妙心寺で営まれました。もちろん、その背後には柴田勝家が控えています。これらの法要では正式な葬儀こそ行われませんでしたが、法名はいずれも「天徳院殿」とされています。
一方、秀吉は大徳寺で法要を行います。妙心寺と大徳寺は、いずれ劣らぬ京都の大寺院です。
贅を尽くし見せ付けた葬儀
葬儀が営まれたのは、変から4ヶ月後の10月初旬。主催したのは秀吉です。会場は引き続き大徳寺で、導師は大徳寺117世寺主・古渓宗陳(こけいそうちん)が務めました。大徳寺は鎌倉時代末期に播磨の守護・赤松円心の寄進により、大燈国師・宗峰妙超が開創した寺で、臨済宗大徳寺派の総本山です。現在でも京都市北部に広い境内を有する、京都でも屈指の禅寺です。葬礼は足利将軍家の七仏事に倣って7日間にわたり行われました。朝廷からは正一位太政大臣が追贈され、「総見院殿贈大相圀一品奉厳大居士」の諡号(しごう)を賜ります。秀吉は大徳寺内に信長の菩提所として総見院を建て、作事料や寺領を寄進しました。
10月11日には大部の経典をかいつまんで誦むことで全体を読誦したとみなす「転経(てんきょう)」、12日には法華経を1日で書写する「頓写(とんしゃ)」と無縁仏を供養する「施餓鬼会(せがきえ)」、13日には罪障を懺悔するための読経である「懺法(せんぼう)」、14日には釈迦の弟子となる「入室(にゅうしつ)」、15日に遺体を荼毘に付し、16日に通夜、17日に焼香と、順を追って仏事を営みます。
特に15日の葬礼は、贅を尽くしたものでした。信長の遺体の代わりに沈香(じんこう)で2体の像を作らせ、1体を棺に納めます。大徳寺から担ぎ出されて葬送地へ向かう棺は金銀宝玉で飾り立てられ、金紗金襴(きんしゃきんらん)で包まれていました。祭壇の軒には瓔珞(ようらく)が下がり、欄干の擬宝珠(ぎぼし)にも金銀が嵌め込まれ、八角の柱は丹青で鮮やかに彩色されます。
火葬場となった蓮台野には百間四方の斎場が設けられ、秀吉の弟・秀長の兵3万人が、大徳寺から火葬場までの1,500間の道の左右を弓・箙(えびら)・鑓(やり)・鉄砲を携えて警護に当たりました。葬礼には秀吉の配下のみならず諸侍も集まり、烏帽子・藤衣を着用した参列者は3,000人を超え、見物人は数えきれないほどでした。棺を乗せた御輿には前を池田輝政、後ろを羽柴秀勝が付き添い、位牌と太刀は秀吉自らが捧げ持ちます。
参列した僧侶は京都五山の禅僧をはじめ、洛中洛外の諸寺の律僧、南都(奈良)からも駆けつけた数千もの僧が読経しながら練り歩きました。僧に差し掛けられた五色の天蓋に陽の光が煌めき、沈香から立ち上る香りがあたりを包み、供え物や供花は台からあふれんばかりです。最後は棺とともに焼かれた木像の灰を、遺骨代わりに総見院へ埋葬しました。
フロイスの目
ルイス・フロイスもこの有様を書き残しています。「羽柴秀吉は抜け目なく狡猾であった。秀吉は己の力を誇示し、縁者・民衆の望むように主君信長の供養を豪華に盛大に挙行した」
「この盛大な葬儀は、秀吉が信長の後継者としての地位を確固たるものにする方策の一つだった」。
ただ、葬儀そのものについては称賛しています。
「葬儀は最も豪華に盛大に営まれ、信長と言う王者の風格を持ち優れた人物に相応しいものだった」
しかし、この葬儀には信長の次男・信雄は参列せず、勝家ら反秀吉派の織田家重臣たちも一切かかわろうとしませんでした。「次の天下の覇者は信長公の血筋ではない、わしじゃ」ということを天下に見せつけるための派手な葬儀ですから、織田家代々の家臣たちがそっぽを向いたのも当然と言えるでしょう。
なお、秀吉は当初自分が葬儀の喪主になりたいと阿弥陀寺の住職・清玉上人に頼み出ましたが、「信長公亡き後の織田家を乗っ取るに等しい振舞いではないか」と拒否されました。そのため、当初予定していた阿弥陀寺での葬儀を諦め、大徳寺で行うことになったようです。
おわりに
信長の首も遺骨も、本能寺の焼け跡からは見つかりませんでした。そのため「信長生存説」もささやかれましたが、同時に信長の墓も全国各地に建てられました。いずれも遺骨を納めた正式な墓ではなく、衣や遺品・遺愛の品を納めた供養塔です。阿弥陀寺、今宮神社、大徳寺総見院、大雲寺、本能寺、妙心寺玉鳳院、建仁寺、建勲神社と、京都だけでもこれだけ存在します。ほかにも大阪や滋賀、岐阜、愛知、遠く離れた場所では、細川忠興が菩提を弔うために建て、細川家の移封に伴って熊本に移転した「泰巌寺(たいがんじ)」や、信雄から10代目の織田信美(のぶよし)が山形・天童に移封された際、織田宗家の菩提寺として建てた「三宝寺」などがあります。





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