【豊臣兄弟!】信長亡き後の織田家の後継を決める「清洲会議」は『太閤記』にはどのように記されているのか?

  • 2026/08/10
:歴史学者・作家・評論家
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 大河ドラマ「豊臣兄弟!」第30回は「清須会議」。

 天正10年(1582)6月、明智光秀の突然の謀反により、織田信長・信忠父子は京都にて討たれます。江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した豊臣秀吉の伝記『太閤記』によると、信忠は切腹する間際に前田玄以を側に呼び「汝は急ぎ岐阜に参り、妻子たちを清須に召し連れ、長谷川丹波守と相談しつつ、我が子(三法師)を守り立てて欲しい」と厳命したとあります。よって前田玄以は、岐阜に赴き、その後「御若君」(信忠の子・三法師)のお供をして清洲城(愛知県清須市)に向かうのでした。

 一方、秀吉は光秀方を討伐した後、「若君」(三法師)に挨拶するため、尾張国に向かいます。ちなみに三法師は天正8年(1580)生まれであり、未だ幼少でした。北陸にあった織田家の宿老・柴田勝家もまた三法師に挨拶するため尾張の清洲にやって来ます。清洲には他にも池田恒興・丹羽長秀・筒井順慶らが参集したと『太閤記』にはあります。「三歳の主君」(三法師)を前にして、そうした人々は「落涙」したと言います。祖父(信長)と父(信忠)を亡くしておいたわしいと涙を流したのでしょう。

 『太閤記』には三法師が15歳になるまで領主が定まっていない国々は織田重臣が預かることになったと記されています。そして秀吉は丹波国、柴田勝家は近江国内の長浜(6万石)、丹羽長秀は若狭国と近江高島・志賀2郡、池田は大坂・尼崎・兵庫(12万石)を預かることになったと記述されているのでした。

 主君の弔合戦に功績のあった秀吉が「丹波」だけとは少ないと思われるでしょうが、同書には「明地」(権利者のない地)の多くが天正10年(1582)中には秀吉のものとなったと書かれています。清洲会議(1582年6月27日)の所領配分により、実際には秀吉は「山城国・丹波国・河内国東部」を得ています。勝家は「近江国長浜」、丹羽長秀は「近江国高島郡・志賀郡」、池田恒興は「摂津国大坂周辺」を得たことから、秀吉がその勢力を一段と伸長させていることが分かります。

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  この記事を書いた人
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。 武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。兵庫県立大 ...

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