【家紋】三角のマークは蛇のウロコ?「北条五代」の後北条氏の家紋について

 日本の歴史上、最大の中世城郭と称される相模の「小田原城」。栄枯盛衰の世のならいから、後に「小田原評定」の語源ともなったことは有名ですが、この城を本拠として関東地方に覇を唱えた戦国大名が「北条氏」です。

 初代「北条早雲」はつとに名高く、長らくその前半生は謎とされていましたが、室町幕府御家人であった伊勢氏出身の「伊勢新九郎盛時」その人と比定されるようになりました。領国の地名から「小田原北条氏」、あるいは鎌倉幕府執権の北条氏と区別するために「後北条氏」とも呼ばれ、特に初代から五代までを一時代と捉えることが多いようです。

 そんな栄華と滅びの歴史を語る、後北条氏の家紋についてのお話です。

後北条氏とは

 まず、後北条氏の歴史について概観しておくこととしましょう。

 先に述べた通り、執権北条氏との区別のために後世の歴史家が「後」を付けて呼称するようになったもので、「後北条」という苗字だったわけではありません。氏の名は「北条」であり、「後」を付けるのは便宜上の歴史用語といってよいでしょう。

初代・北条早雲の銅像
小田原駅前にある初代・早雲の銅像

 執権北条家にあやかって「北条」を名乗ったのは二代・氏綱の頃であるとされ、後北条氏は執権北条家の直接的な後裔ではないといいます。

 初代・早雲が本来「伊勢氏」であったことから氏綱も伊勢姓を名乗っていましたが、早雲の死後に北条を称するようになったものです。したがって、厳密には初代を「“北条”早雲」と呼ぶことはなかったはずですが、慣例的に早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直を「北条五代」と数えています。


 伊勢氏は桓武平氏に連なる氏族であり、平氏が用いた「蝶」の紋を使っていました。二羽の蝶が向かい合って円を描く「対い蝶(ついちょう)」がそうで、蝶の口が互い違いになる特徴から「北条対い蝶」とも呼ばれています。

早雲が使っていたとされる「北条対い蝶」の家紋
早雲が使っていたとされる「北条対い蝶」

 このように蝶の紋を用いるのは、一族の出自が平氏にあることを示す意図によるものとされています。

特徴的な「鱗紋」

 「北条氏」としての家紋といえば有名な「三つ鱗」をイメージされる方も多いのではないでしょうか。

 黒い逆三角を中心に白い三角をピラミッド状に配置した紋様で、シンプルなだけに一度見たら忘れられないようなインパクトをもっています。これは執権北条家が家紋として用いていたもので、後北条氏もその伝統を引き継ぎます。

 本来の三つ鱗が正三角形であるのに対して、後北条の鱗紋は少し扁平な二等辺三角形を呈しているといわれています。これは「北条鱗」ともいい、後北条宗家における独占紋として用いられました。

「北条鱗」の家紋
「北条鱗」の家紋

 ただし、厳密に二等辺三角形の鱗紋として認識されていたかは定かではなく、当時の武具などにあしらわれたものからはそこまで極端な変化は認めにくいとする意見もあります。

 この紋は「鱗」と名の付く通りに大蛇、あるいは龍の鱗を象ったものという伝説があります。鎌倉幕府初代執権・北条時政が江ノ島弁財天に参拝した折、出現した大蛇が鱗を落としたことから、家紋の意匠として用いるようになったといわれています。

 後北条氏ではこの鱗紋を定紋とし、伊勢氏由来の対い蝶は替紋として位置付けたようです。

古代からの日本人の龍蛇信仰

 執権北条家の始祖が弁財天への参拝で大蛇(龍)に出会い、その鱗を家紋としたという伝説は、日本人の古くからの信仰観を強く示すタイプのエピソードであるといえます。

 そもそも創建が古代に遡る歴史ある神社の神体は「蛇」であることが多く、奈良の三輪山に代表されるように美しい三角錐状を呈する山そのものが神として尊崇されてきました。

古くから大物主大神が鎮座する神の山として信仰された三輪山
古くから大物主大神が鎮座する神の山として信仰された三輪山(奈良県桜井市。出所:wikipedia

 三輪の神である「大物主(オオモノヌシ)」はその正体が蛇神であるとされ、一説には三角錐の山はとぐろを巻いた蛇の姿を仮託しているともいわれています。

 このような山を「甘南備(かんなび)」といい、三角の模様は蛇を連想させるものでもあったのです。

 蛇は種類によってはマムシなどのように致死性の猛毒をもち、なおかつ脱皮を繰り返すことから「再生」や「不死」を司る強力な神として印象付けられてきたと考えられています。

 また水神としての側面もあり、先述した「弁財天」は技芸や音楽を司る仏尊でありながら頭に蛇体の「宇賀神」を載せた姿で描かれることから、水辺の龍蛇神という性質を有しています。

浅井久政が奉納したという宇賀弁才天坐像(宝厳寺 所蔵)
浅井久政が奉納したという宇賀弁才天坐像(宝厳寺 所蔵。出所:wikipedia

 北条氏が活躍した相模・小田原の地は見事な甘南備である富士の山が見えたことでしょうし、海を含めた水陸交通の要衝という重要な立地でもありました。それらのことから古代に遡る蛇の神の加護を願って、鱗の紋を用いたのかもしれませんね。

おわりに

 「北条」という氏を名乗っているため、鎌倉幕府執権の末裔であると誤解されやすい後北条氏ですが、家紋を含めてかなり「“前”北条」を意識していたことがうかがえます。その地力は最大版図で240万石にも達したとされ、最終的には豊臣秀吉に敗北するものの「鱗」の紋は人々に鮮烈に記憶されたことでしょう。


【参考文献】
  • 『見聞諸家紋』 室町時代 (新日本古典籍データベースより)
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 「「見聞諸家紋」群の系譜」『弘前大学國史研究 99』 秋田四郎 1995 弘前大学國史研究会
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』大野信長 2009 学研
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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