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  • 北条五代
 2019/06/10

「北条氏邦」北条家滅亡の間接的な原因を作った?

北条家の三代当主・北条氏康の子どもたちは、四代当主となった氏政を筆頭として、関東を拠点に一大勢力を築いた北条の御一門衆として活躍を見せました。

その子どもたちのうち、五男にあたるのが北条氏邦です。彼は兄氏政を盛り立てて北条家の権威拡大に貢献しましたが、彼のとある采配が小田原落城の原因となり、北条家の滅亡に繋がってしまった可能性も高いと指摘されます。

この記事では、彼の生涯を文献や史料に基づいた形で解説していきます。
(文=とーじん)

近年見直されている氏邦の出自

氏邦は誕生年は江戸時代から通説として、天文10年(1541年)とされてきました。 しかし、近年の研究で彼の生年は天文17年(1548年)であるという見方が有力なものとなっています。

つまり、これにより弟の北条氏規よりも三歳年下ということになり、年齢が逆転します。これまで氏邦は氏康四男とされていましたが、新説では五男ということになります。

北条五代の略系図。兄弟関係は左から年長者。横スクロール可

また、氏邦の母についても従来は正室の瑞渓院殿であると考えられていましたが、「岩本院文書」によれば彼の序列は兄弟の中でも下位であったことから、側室の子であるという見方がなされるようになりました。なお、氏邦の母は北条家宿老・三山綱定の姉妹ではないかと推測されています。

時期は定かでないですが、氏邦は藤田康邦のもとに養子として送り込まれ、そこで家督を継承したようです。

藤田康邦はかつて山内上杉家の家臣であったが、天文15年(1546年)河越夜戦で降伏してからは北条家臣に。実際、永禄4年(1561年)には氏邦が藤田家家臣らに本領を安堵する文書を出しています。

その後、永禄5-7年(1562-64年)頃に元服を済ませ、幼名の乙千代丸から仮名の新太郎を、次いで氏邦の名を名乗りました。

また、永禄7年(1564年)には藤田康邦の娘である大福御前と結婚し、その後は藤田領であった武蔵国花園領(現在の埼玉県寄居町付近)を支配しました。

軍事・外交の両面で活躍

永禄11年(1568年)頃には埼玉県にある鉢形城を再興し、本拠を移しています。もっとも、永禄12年(1569年)からは武田信玄による猛攻を受け、彼はその防戦に精一杯だったようです。その後は三増峠の戦いで信玄と一戦を交えましたが、北条家にとって事実上の敗北を喫するなど信玄には手を焼いていました。

その後、武田方とは元亀3年に同盟を結んだことで危機は回避され、氏邦は武田方から引き渡された御嶽領(現在の埼玉県児玉郡付近)を併合し、上野国を支配するようになりました。

そして、氏邦もまた他の兄弟同様に他国との外交における役割を期待されるようになり、著名なところでは長尾家などとの外交を一手に担いました。ここから上野国付近の外交は氏邦の管轄であったことがわかり、後に同国へと侵攻する際にも彼が中心となって音頭を取っています。

のちに北条家の災いとなる沼田城を管理下に

天正6年(1578年)5月に上杉謙信が亡くなると、氏康の六男である上杉景虎上杉景勝の間に御館の乱という後継者争いが勃発。北条は景虎方としてこの乱に介入します。

氏邦は兄の氏照らと景虎支援のために越後へと出兵し、三国峠を越えて樺沢城を占拠したものの、坂戸城への攻撃は難航し長期戦の様相を呈しました。やがて冬の雪に侵攻を阻まれ、北条軍は越後からの撤退を余儀なくされていきます。

天正7年(1579年)には景虎が自害し、北条家による御館の乱への介入は失敗に終わりました。この乱のとき、氏邦はのちに真田家と争いのもとになる沼田城を北条領に併合。北条家の上野進出に伴い、同城に城代として猪俣邦憲・藤田新吉らを配置します。

天正10年(1582年)本能寺の変勃発直後に発生した神流川の戦いでは滝川一益を敗走させる功をあげました。この直後には武田旧領の争奪戦となった天正壬午の乱にも参戦し、箕輪城を支配するとともに上野地域を担当していた氏邦の格も向上していきます。

天正14年(1586年)には正室の子である氏規を抜き、氏照に次ぐ政治的地位を占めるようになったとされます。なお、これを指し示すかのように翌天正15年(1587年)からは北条姓を名乗っています。

「名胡桃城事件」の首謀者か?

しかし、天正17年(1589年)には、沼田城代の猪俣邦憲が、真田領である名胡桃城を占領する「名胡桃城事件」を引き起こしてしまいます。猪俣が氏邦配下の将だったことから、氏邦が首謀者との推測もあるようです。

沼田城周辺は長期間にわたり、北条と真田が争奪を繰り返した土地でした。この名胡桃城事件は、両者が豊臣政権下に従属した後、秀吉が仲裁に入り、調査を経てようやく領土割り振り(いわゆる沼田裁定)が済んだばかりのときに起こった出来事でした。

このため、かねてから北条家の行動に苛立っていた豊臣秀吉は激怒し、翌年の小田原征伐に繋がってしまうのです。

加賀前田家とつながった晩年

氏邦は戦に際して大規模な野戦を主張したとも伝わりますが、結局これは受け入れられず、彼は自身の居城である鉢形城に籠って応戦することに。しかし、前田利家らを中心とする圧倒的軍勢の前にはなすすべがなく敗戦。

戦後、開戦に積極的だった氏政・氏照らは切腹となり、北条は滅亡となりますが、氏邦自身は前田利家の嘆願によって剃髪して助命となっています。

その後は利家の配下として知行千石を与えられましたが、慶長2年(1597年)に加賀国の金沢で病没しています。


【主な参考文献】
  • 下山治久『後北条氏家臣団人名事典』東京堂出版、2006年。
  • 黒田基樹『北条氏康の家臣団:戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち』洋泉社、2018年。
  • 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年。




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