みなさんは上杉景虎の名前を聞いたことがありますか?
景虎といえば、上杉謙信が元服した時の名前じゃないか! と思う人の方が多いかも知れません。ですが、たくさんいる謙信の養子の中で、謙信が目をかけ、自分の名前を譲るほどに気に入られていた男が後継者の中に一人だけ存在したのです。
ここでは「景虎」の名前を継いだものの、謙信の後継者には成れなかった男の短くも走り抜けた生涯をご紹介いたします。
(文=趙襄子)
上杉景虎は天文23年(1554年)、相模国の大大名・北条氏康の七男として誕生しました。母親は氏康の側室であり、家臣である遠山氏の一族・遠山康光の妹であったようです。
幼少時は箱根の早雲寺に預けられ「出西堂」と名乗っていた景虎は、七男坊として生まれたために嫡男に収まるどころか養子のあてもなく、このまま出西堂として寺で一生を終えるのだ、と誰もが思っていたことでしょう。
しかし永禄3年(1560年)、北条・武田とともに三国同盟を締結していた駿河の今川が、まだ無名だった織田信長の奇襲に遭い、当主今川義元があっけなく討死してしまったことで状況は一変します。東海一の弓取りといわれた義元を失った今川家は徐々に衰退し、やがて信玄が三国同盟を破棄して今川領へと侵攻するのです。
北条家は氏康の娘が今川氏真に嫁いでいるのもあり、今川家を支援するものの、結局は力及ばず。永禄12年(1569年)に大名としての今川家は滅亡に至ります。武田との同盟も完全に破綻してしまった北条家は次の一手を考えねばならなくなりました。
一方で景虎は、未だに早雲寺で独経の日々を過ごしてたかというとそうではなく、父氏康の叔父にして北条家の外交僧である北条幻庵の娘を娶って婿養子となり、還俗して出西堂から三郎に名も改まっていました。
母方の家である遠山氏とも蜜に友好を深め、小机衆を預けられ名実共に北条家の末席に名を連ねることができた景虎はこれからという時に新たな任務を託されました。それは越後国の上杉家との同盟(いわゆる越相同盟)の証として上杉謙信の元に養子に行ってくれというものでした。謙信は妻帯しておらず、実子がいませんでした。
その大抜擢に景虎をはじめ、北条家の人々も躊躇したことでしょう。なぜなら上杉家と北条家は敵対関係が続いており、少し前には謙信の連合軍に10万の大軍で攻め込まれ、北条家は滅亡寸前にまで追い込まれたことがあったからです。
謙信の養子とはいっても要は同盟の証としての人質でした。敵としては恐ろしく強い謙信も一度味方になれば決して裏切らないという評判を信じ、父氏康は我が子景虎を越後へと送り出したのです。
なお、これは余談ですが、景虎はかつての甲相同盟の時点で武田氏に人質として提供されたという説もあります。しかし、武田側の史料にはそういった内容が見当たらないため、この説は懐疑的な見方が大勢を占めているようです。
年が明けた永禄13年(1570年)、上野国の沼田にて景虎と謙信は初めて顔を合わせました。
景虎を見て何か思うところがあったのか、謙信は景虎を引き連れて本国・越後に入るや、養子の証として景虎に対し、己の姉の娘を嫁に取らせ婿養子にするとともに、本拠地・春日山城の三の丸に住むことを許しました。
それはいわば謙信の喉元に住むことを許されるということ…。まだ互いをよく知らないにも関わらず、血を分けた家族のごとき待遇に景虎の感激した様子が目に浮かびます。
さらに景虎を喜ばせたのは名前でした。まだ北条三郎という名乗りで正式な名前の無い景虎に対して謙信は自身の初名である「景虎」を名乗ることを許しました。
謙信が元服してからの越後統一戦に武田信玄との死闘、果ては実家が滅亡寸前にまで追い込まれた関東遠征。 幼い頃に聞いた数々の武勇伝には必ずと言っていいほどに出てくる伝説の名前。その名を自分に与えてくれるなんて、これ以上の光栄はないと感じたことでしょう。
また、謙信は景虎に「もし将来、上杉と北条が戦うことになったら汝はどちらに合力するのか」と尋ねたとき、景虎は迷わず、
思う存分、北条を蹴散らす所存
と答えたといいます。これが史実かどうかは定かではありませんが、謙信や越後上杉家への忠誠心がいかに大きいかが伺える話です。
養子に入った次の年の元亀2年(1571年)に父・氏康が亡くなると、北条家を継いだ長兄・氏政はあろうことか謙信との同盟を破棄し謙信のライバルである武田信玄と同盟を結んでしまいました。
微妙な立場に追い込まれた景虎ですが、謙信に答えた通りに景虎は越後に残り、越後のため謙信のために戦うことを誓いました。 「景虎」の名前を与えられた時点で三郎は北条の七男坊ではなく「上杉景虎」として毘沙門天の眷属となったのです。
謙信には四人の養子がいました。
謙信の姉・仙洞院の子であり、景虎の正室である清円院の弟の上杉景勝。武田信玄と信濃の覇権をかけて戦うも破れて謙信の客将になっていた猛将・村上義清の遺児・山浦国清。元・能登畠山家当主・畠山義継の子・義春。そして景虎の四人です。
天正6年(1578年)3月13日、春日山城の厠にて脳卒中に倒れた謙信はそのまま帰らぬ人となってしまいました。そしてこの時、謙信は肝心なことを決めていなかったのです。
それは、誰が謙信の跡目を継ぐのかということ。
四人の養子のうち山浦国清と畠山義春はすでに他家の名跡を継いでいました。そうすると残ったのは景虎と景勝の二人。 さらにたちの悪いことにお互いの官位といい権限といい、どちらもほぼ同等の扱いだったのです。
両雄並び立たず、越後全土を巻き込んだ後継者戦争の幕があがるのです。
越後は真っ二つに割れました。
景虎に味方したのは実家の北条家に信玄の後を継いだ武田勝頼といった周辺諸国の大名に、謙信を養子に迎えた元関東管領・上杉憲政、宿老・本庄秀綱など。
対する景勝には謙信の二人の養子や後の執政・直江兼続となる樋口与六に直江信綱や河田長親といった謙信の元側近や旗本衆が多数味方していました。
先に動いたのは景勝です。景勝は真っ先に春日山城を押さえると金蔵と武器庫を接収し景虎を春日山城より放逐しました。
先を越された景虎は城下にある関東管領の政庁となっていた御館に籠って景勝と前面対決に及びます。 実家の北条家も景虎援護のために武田家と連動して越後に侵入しようと試みました。
しかし景勝方は莫大な謙信の遺産を使って武田勝頼を買収すると勝頼は景虎側から景勝側に寝返りました。 さらに北条軍は豪雪に阻まれて景虎の援軍に向かえずに当初優勢だった景虎側は次第に支えきれなくなり御館は落城。
上杉憲政とともに御館を脱出した景虎でしたが、二手に分かれた憲政は景虎の嫡子の道満丸とともに暗殺され、景虎の正室である清円院は弟・景勝の降伏勧告を拒み自害して果てました。
再起を賭けて実家のある小田原に向かった景虎でしたが途中、味方である鮫ヶ尾城に寄った際に鮫ヶ尾城主・堀江宗親に背かれ自害に追い込まれ、26年の短い生涯を終えたのでした。
辛くも謙信の後継者に収まったのは景虎ではなく景勝でした。
しかし2年にも及んだ内乱の後遺症は凄まじく、一時は織田信長や北条家に攻められ滅亡寸前にまで追い込まれるも、信長が京の本能寺で家臣である明智光秀に討たれたことによって侵攻は収まり、上杉家は一命を取り留めました。
景勝は上杉家を立て直し、何とか滅ぼさずに次代へと繋げることで滅ぼしてしまった義兄・景虎に報いたのかも知れません。