「岡部元信」は家康の遠江攻略を何度も阻み続けた猛将だった!

高天神城跡(静岡県掛川市)にある岡部元信と板倉定重の墓
高天神城跡(静岡県掛川市)にある岡部元信と板倉定重の墓
 武士と言えば「忠義第一」とよく言われるが、実は江戸時代になって定着した道徳観であるらしい。戦国時代には、「損得勘定」による寝返りなど、日常茶飯事だったと言われる。時々、「忠義の人」と称される武将も史料には出てくるが、それも後世の創作である可能性が高いというから始末に負えない。

 ところが、岡部元信(おかべ もとのぶ)という武将は、そんな話とは一線を画する武将だと言ってよいであろう。生きるためには「損得勘定」的な判断もしながら、多大なる御恩には「忠義」でもって応える。そんな生き様を今回は紹介したいと思う。

今川家重臣

 岡部元信は、今川家重臣・岡部親綱を父として生を受けた。生年は不明である。

 父・親綱は今川義元の家督相続を巡る争い、いわゆる花倉の乱で方ノ城を落とし、敵対する義元の庶兄・玄広恵探の籠る花倉城を猛攻する活躍を見せる。恵探は逃亡の末、自刃して果てた。

 これにより義元から感状を賜ったというから、かなりの猛将ぶりである。元信も、その血を受け継いだようで、遠江・三河の平定に多大なる貢献をしたという。

 天文17年(1548)の第二次小豆坂の戦い、そして翌年の安城城の合戦でも戦功を挙げ、徐々に重臣としての地位を確立していったものと思われる。ところがこれ以降、義元から知行を没収され、甲斐の武田信玄の下に身を寄せていた時期があるようだ。

 この件に関して私が調べた限りでは、はっきりとした記述のある史料は見つけられなかった。ただ、参考となる記述が何点かあるので、そこからある程度のことは推測できよう。

 まずは、知行を没収されたのがいつ頃かということであるが、これは徳川家康の変名歴を見ると大体わかる。家康が「松平元信」を名乗っていた時期があるからだ。

 「松平元信」が史料に登場するのは、天文24年(1555)5月6日の石川忠成・青木越後・酒井政家・酒井忠次・天野康親の連署状においてである。岡部元信と同じ名を、今川の人質であり、しかもまだ若輩だった家康が名乗ることは考えられない。つまりこの頃には、岡部元信は知行を没収され、信玄の元に身を寄せていたということになる。

 そして、「松平元信」の終見が弘治3年(1557)11月11日石川忠成等連署状であることを考えると、この後程なくして今川に帰参したと考えられよう。

 整理すると、岡部元信が信玄の元に身を寄せていたのは、1555年あたりから1558年くらいの間ではないだろうか。

 さて、それでは、知行が没収された理由はなんだろうか。これに関する史料が全く無く、不明としか言いようがないのであるが、ひょっとすると誰かの讒言によるものだったのかもしれない。

 まさかとは思うが、信玄が謀略として讒言を行ったとすると、何となくしっくりきてしまうのである。

桶狭間

 永禄3年(1560)、桶狭間の合戦が起こる。当時、元信は鳴海城主であったが、その地は織田信長との戦いの最前線だった。

 元信は鳴海城を拠点とし、激闘を繰り広げる。途中、主君義元が討たれるという壊滅的戦況を耳にしても、戦いを止めなかったという。勢いに乗る織田勢が押し寄せて来るも、これをことごとく撃破。しかし、大局的に不利なことに変わりはなく、鳴海城を明け渡すこととなった。

 この際、元信は義元の首と引き換えの開城を申し入れたという。この忠義に感じ入った信長は、義元の首を丁重に棺に納めて元信の元に送り届けたと言われている。

 これは、忠義を示すためということもあるだろうが、実のところは本当に義元の首なのかを確認したかったのではないだろうか。

 鳴海城を開城した元信は、駿府へ向かったが、その途中に手柄無しで帰還することに不満を覚えた。そこで、手勢100人程で刈谷城を攻撃。城に火を放って混乱を誘い、城主の水野信近を討ち取ったのだ。駿府の今川氏真は、この働きを喜んで感状を与えたという。この手柄により、以前義元に没収された領地を返還されたとされる。

 これも、穿った見方をすれば、旧領を取り戻すためのパフォーマンスではないかともとれる。というのも、戦国時代には、忠義は重視されないわけではないが、それにも増して損得勘定が重んじられたと言われているからだ。


甲斐武田家へ

 永禄11年(1568)12月、武田信玄は駿河侵攻を開始する。今川氏真は攻勢に転ずるべく動くが、家臣の離反が相次ぎ、駿府からの撤退を余儀なくされてしまう。当初、元信は氏真と行動を共にしていたが、のちに武田に降伏。やはりこの時代、損得勘定は重要だったと言える。

 その後は、駿河先方衆として武田に仕えたとされるが、最初から重用されたわけではないようだ。『甲陽軍艦』によれば、この当時元信が動員できた兵はわずか10騎のみであったという。

 これは元信の働きが評価されていなかったのではなく、旧領回復自の一族内の訴訟問題のごたごたで岡部一族の統率が取れていなかったため、惣領として認められていなかったという経緯があるらしい。

 しかし逆境においても、その人物の実力は徐々に人の知るところとなるようだ。元々、信玄との交流があったという点もあるだろうが、駿府の海賊衆の統率に大きく関わっていたという点が評価されたのだろう。

 元信は次第に武田家中で重用されるようになっていく。特に、信玄没後に勝頼の代となると、その重用ぶりは激しさを増していく。

 驚くのは、今川義元の隠居屋敷へ住むことを許可されたという点である。さらには、子息を武田家旗本として出仕させるなど、かなりあからさまな優遇を受けたようだ。

 天正2年(1574)6月、勝頼は遠江の要衝である高天神城を落とす。いわゆる、第一次高天神城の戦いである。遠江攻略において、先手を取ったかに見えた勝頼であったが、天正3年(1575)5月の長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍の前に大敗を喫する。

 その後は徳川方が勢いづき、反攻を開始。徳川方は二俣城や諏訪原城など、拠点となる城を落とし、元信が守る小山城へも猛攻をかけるが、元信は勝頼が援軍を率いて来るまでの約1年もの長い期間、これを凌いだという。この後も、家康の遠江攻略をことごとく阻み、勝頼の信頼はますます厚くなった。

 また、武田水軍を統括していた同族の土屋貞綱が戦死し、跡継ぎの土屋昌恒が勝頼の側近として甲府に出仕したため、土屋氏の代わりに元信が武田水軍を統括することとなったようだ。

 そういった事情もあり、元信は水軍の拠点近くの要衝である高天神城の城将に抜擢されたのだろう。これをもって、遠江方面の軍事指揮権を与えられたことになる。

高天神城攻防戦

 高天神城奪還に向け、同城を攻めあぐねていた家康は、作戦を兵糧攻めに変更する。これはおそらく勝頼が北条氏政と交戦中のため、援軍を送ることが難しいであろうことなどを加味しての判断だったと思われる。

 この家康の読みは的中する。天正8年(1580)10月に兵糧攻めが開始されたが、翌年の3月には城内の兵糧は底をついたようだ。この時点においても、まだ後詰を送る目処は立っておらず、兵は草木をかじって飢えを凌ぐという有り様であった。

 この状況を目の当たりにした元信は、諸将を集めて軍議を開いたという。そして、”信玄公・勝頼公の恩義に報いるためにも打って出るべし” という意思を鮮明にしたのである。

 実は遡ること2か月ほど前、元信は家康に対し、滝堺城及び小山城の明け渡しと引き換えに、城兵の助命を嘆願する書状を送っていた。ところが信長が元信の降伏を拒否したため、選択肢は1つに絞られてしまったのだ。

 天正9年(1581)3月22日夜10時頃元信は城兵を率いて、徳川方で最も手薄であった石川康通の陣に突撃をかけた。徳川方は、奇襲の可能性をある程度予測していたものと思われる。というのも、大きな混乱もなく、大久保忠世や大須賀康高らの部隊がこれを迎え撃っているからである。

 先頭をひた走る元信を迎撃したのは大久保忠教であったが、まさか城将自ら突撃してくるとは思わず、これを家臣の本多主水に任せたという。元信は主水と組打ちになり、討ち取られたと伝わる。

 享年は不明であるが、70歳くらいであったという説もある。


あとがき

 本多主水は自分が討ち取った武将が、まさか岡部元信だとは思わず、首実験の際に事実がわかって腰を抜かすほど驚いたという話が残っている。

 遠江攻略を阻み続けた元信が討ち取られたと知って、家康はよほど嬉しかったのか、その首を安土城の信長のところへ送り届けたという。

 かつて、信長に主君・今川義元の首を鳴海城まで届けさせた元信であったが、最終的には自分の首が信長の元に届けられることになろうとは、つゆ思わなかったであろう。

 さて、その首と対面した信長は何と言ったのであろうか。どこぞの史料にないかと、ついつい探してしまう今日この頃である。


【主な参考文献】
  • 今井敏夫『<今川義元と戦国時代>今川家の屋台骨 太原雪斎と岡部元信』 (学研プラス、2015年)
  • 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち』(教育評論社、2016年)
  • 丸島和洋『武田勝頼 (中世から近世へ)』(平凡社、2017年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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