「一条兼定」暗愚と評され、戦国大名になろうとした公家。実際は暗愚ではなかった!?

pinon
 2018/04/08

一条兼定の肖像画

京の一条家と言えば、関白も輩出している公家の名門であることはよく知られている。 しかし、土佐の地に戦国大名のごとき活動を見せた分家・土佐一条家があったことはご存じだろうか。

中でも、その5代当主・一条兼定(いちじょう かねさだ)は戦国大名としての活動を前面に押し出した人物であった。暗愚とも評された兼定であるが、果たして本当にそうだったのだろうか。

名門土佐一条家

一条兼定は1543年、一条房基を父として生を受けた。 因みに一条氏は関白などを輩出する名門の家柄である。本家は京の一条家であるが、分家の土佐一条家も兼定の大叔父である房通が関白に就任するなど、一定の権勢を保っていた。

兼定の父・房基は公家でありながら、知勇に優れ、一代で領国を拡大した強者であったという。 ところが勢力を拡大し、乗りに乗っていたはずのこの時期に房基は突如自殺したというのだ。 1549年のことと伝わる。

自殺の原因は、はっきりとはわからない。 一説には気がふれての自殺であるという。 一方では、戦国大名のごとき振る舞いを京の一条本家に疎まれて暗殺されたとの異説も存在する。

ともかく、兼定は父の死によって齢7歳にして家督を継ぐ。

戦国大名化

兼定は、関白となっていた大叔父・房通が養父となり、その後見のもとに置かれた。 おそらく、兼定は父の活躍ぶりをつぶさに見たろうし、それに憧れてもいたろう。 そう考えると、生粋の公家である養父の言動は退屈そのものだったのではないか。

そんな養父が1556年に亡くなり、元服した兼定の胸に去来するものは何であったろう。 おそらく父の活躍ぶりが鮮やかに脳裏を駆け巡ったのではないか。 それを裏付けるかのように、兼定は戦国大名化を加速させる。

1558年には伊予の戦国大名・宇都宮豊綱の娘を妻に迎えた。 この妻とは1564年に離別するが、今度は豊後の戦国大名・大友義鎮の娘を娶る。 これが土予合戦の引き金になったと言われる。

この頃の兼定は連戦連勝であったようだ。 『元親記』によれば、1565年土佐に侵攻した宇和郡の西園寺公広を撃退。 さらに伊予に軍を進め、大友宗麟の援軍のもと宇和郡の多田氏を討ったのである。 そして、1572には年黒瀬城の西園寺公広を攻め、これを降す。

確かに、知勇に優れた家臣・土居宗珊がいたということもある。 しかし、最終的な決断は兼定が行っていたであろうことを考えると、後世の「暗愚」という評価は本当に妥当だろうか。 とは言え、伊予進出を目論む毛利との戦いは荷が重かったと思われる。

1568年、兼定は伊予に進出する。 伊予の覇権をめぐる争いが勃発し、河野氏と戦う宇都宮豊綱を支援するための出兵であった。 しかし、毛利の支援を受けた河野氏は強大で、兼定は大敗する。

初めての大敗に兼定が意気消沈したことは容易に想像できよう。 その兼定に追い打ちをかける事態が起こる。長宗我部の台頭である。

長宗我部元親の台頭

長宗我部氏はそもそもは一条氏の勢力下にあったという。 父・国親の代から続いていた土佐郡朝倉城主の本山氏との戦いに一条氏と共同で臨んでいることが確認できる。

ところが、兼定が河野氏に大敗を喫したことで、その影響力が大幅に低下したのを見てとった元親は一条氏からの独立を目論む。 兼定を大敗させた河野氏に戦勝祝いを送っているのもその一環であろう。

元親の離反を悟った兼定は、元親と馬の上村の領有を巡って争いを繰り広げていた妹婿の安芸国虎に援軍を出し、元親を討とうとした。しかし、八流の戦いで国虎は大敗を喫す。国虎は自害して果てたという。

土佐東部を平定した元親は攻め手を緩めず、兼定の家臣である津野氏を滅ぼす。 そして、三男親忠を養子として送り込み、津野家を乗っ取ってしまったのである。

しかし、兼定が治める土佐幡多郡を手中に収めるには難題が残されていた。前述した名将・土居宗珊の存在である。

土居一族殺害

土佐一条家の筆頭家老だった土居宗珊であるが、実は土佐一条家初代当主にして関白であった教房の子だという。

公家の出でありながら土佐一条家の内政・外交を取り仕切り、軍事にも長けていたというから驚く。 四国の雄である元親と言えども、軽々しく幡多郡には手出しが出来なかったのだ。

ところが、その宗珊が兼定に処刑されるという事件が起こる。1572年の事と伝わる。 処刑された理由には諸説あり、定まっていない。

『土佐物語』には兼定の素行を諌めたことで怒りを買い、上意討ちされたとある。この記述は宗珊以外の土居一族にも累が及んでいることから、その信憑性には疑問符が付くのではないか。

また、『四国軍記』によれば、元親は宗珊に度々調略を仕掛けており、そのことを意図的に流布したという。 元親の台頭に危機感を抱いていた兼定は疑心暗鬼となり誅殺したということになっている。 さらには、長宗我部方の刺客が兼定の名を騙って宗珊を亡き者にしたという説もあり、謎は深まるばかりである。

因みに、宗珊諫言説と暗愚説は主に『土佐物語』の記述に基づいている。 しかし、この『土佐物語』は1次史料ではない上に、脚色や記述の誤りが見られる点が指摘されているのだ。 そして、作者の吉田孝世は長宗我部家臣・吉田重俊の子孫であることから、その記述が長宗我部寄りになっているのではという話もあるという。

『土佐物語』ほどではないが『元親記』や『長元記』にしても長宗我部方の旧臣によって書かれているため、その記述を鵜呑みにすることは危険だと思われる。

そこを考慮すると、『四国軍記』の記述がにわかに真実味を帯びてくるような気がするのは私だけであろうか。 この事件の裏には長宗我部の暗躍があり、宗珊を殺したのは兼定でないと言うのが私の見立てである。

洗礼名「ドンパウロ」

土居一族誅殺後、幡多郡を巡る情勢は長宗我部方に都合よく展開している。 1573年、土佐一条家家老羽生監物、為松若狭守、安並和泉守の3名の合議により、兼定は強制的に隠居させられたという。 つまり、土居宗珊は無実というのが家老達の下した裁定だったわけだ。 これも元親の策であろう。 というのも、元親がこの件に介入し兼定の子内政に一条家の家督を継がせ、娘を嫁がせているからである。これで土佐一条家は長宗我部氏の傀儡となってしまう。

1574年2月には追放され、大友氏を頼り豊後に向かった。 豊後での兼定は安穏と隠居生活を送っていたわけではなかったようだ。 豊後で生活するようになってから数ヶ月後には、伊予高森城の梶谷景則のもとを訪れ、土佐攻略のための挙兵について相談している。 1575年には宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受け、キリスト教徒となった。洗礼名はドン・パウロと伝わる。

1575年7月、兼定は大友氏の支援も得て、伊予宇和島で挙兵。 旧臣を率いて土佐中村に舞い戻るや、その挙兵を支持する土豪が帰参し、その兵は3000を軽く超えたという。 ここからも兼定が暗愚でなかったことが見て取れるだろう。 四万十川を挟んで一条・長宗我部両軍が対峙。世にいう四万十川の戦いである。

おそらく、兼定は元親の軍勢も高々3000程度と踏んでいたであろう。長宗我部方の合戦の準備期間が短かったからである。 ところが、ふたを開けてみれば長宗我部の兵は、何と7000を超えていたというのだ。 これには一条方の軍勢もさぞかし驚いたであろう。実は元親は一領具足という制度を駆使していたのである。

一領具足とは半農半兵の兵が領主からの急な召集に直ちに対応できるよう、農作業中も槍と鎧(具足)を傍に置いていたことを指す。 後にこの新制度を駆使して元親は四国をほぼ制覇するのであるが、一条軍はこの新制度のことを知らなかったのであろう。

圧倒的な兵力差の上に、寄せ集めだった兼定の軍勢はあっという間に総崩れとなる。大敗を喫した兼定は落ち延び、瀬戸内海の戸島で隠遁生活を送ったという。

隠遁後は静かな信仰生活を送っていた兼定であるが、アレッサンドロ・バァリニャーノの書簡によれば、旧臣に襲われ重傷を負ったとある。一命を取りとめた兼定はその後も熱心な信仰生活を送ったという。

1585年7月1日兼定は没する。享年43と伝わる。

あとがき

史料から浮かび上がる兼定は決して暗愚な人物では無かった。 しかし、どこまで行っても公家一条家の垢をこすり落とすことはできなかったようだ。

歴史を紐解くと、貴族化した武将はあまり良い末路を辿っていないことが多いような気がする。 兼定はその逆で、公家でありながら戦国大名になろうとした。武将としての筋はそう悪くなかったと私は考えている。

ただ、戦国大名に必要不可欠な「野性味」が備わっていなかったのは致命的であったろう。彼が戦国大名家に生まれていたらどんな武将になっていたろうと考えると、興味は尽きない。


【主な参考文献】
  • 結城了悟 『キリシタンになった大名』 聖母の騎士社 1999年
  • 泉 淳『元親記』 勉誠社 1994年
  • 堀井 順次『山村秘史―キリシタン大名一条兼定他』日本図書刊行会 1989年

  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。
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