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「太原雪斎」黒衣の宰相と呼ばれた軍略智謀の僧

  • 今川義元
 2019/12/20
太原雪斎のイラスト

歴史にあまり興味がない人でも「今川義元」の名前は知っていることと思います。おそらくそのイメージは織田信長のやられ役としてインプットされていることでしょう。

しかし、とある僧侶が亡くなるまでの義元は英邁の誉れ高い名君であったことは意外に知られていないかもしれません。

今回は「雪斎さえ生きていれば今川義元は桶狭間で討死することはなかった…」と言われ、名君義元を陰で支えた黒衣の宰相「太原崇孚雪斎(たいげん そうふ せっさい)」の生涯をご紹介します。
(文=戦ヒス編集部)

雪斎の誕生と義元との出会い

雪斎は明応5(1496)年、庵原城主・庵原左衛門尉の子として誕生しました。

庵原家は駿河国庵原郡庵原郷(静岡市清水区)の領主であり、母親は興津家の出身でした。興津家は庵原郡興津郷に領地を与えられ水軍まで持っており、両家ともに今川家の中では譜代の重臣として重きをなしていました。

雪斎が出家した時期ははっきりしませんが、一説に父の庵原左衛門尉が永世元(1504)年頃に亡くなった事がきっかけと言われています。後を継がずに出家したということは、おそらく嫡男ではなかったでしょう。

はじめ、雪斎は駿河国の善得寺に入って修行に励んでいたようですが、秀才としてその将来性を買われ、京にある京都五山の一角である建仁寺に移って修行をすることになります。

建仁寺は禅宗の一派である臨済宗建仁寺派の総本山です。雪斎はこの由緒正しい寺にて護国院の常庵竜崇長老の衣服の世話をしたり、唐の禅僧・馬氏道一の故事に習い、禅の修業に励んだといいます。

京都建仁寺
京都建仁寺(京都府京都市東山区)。手前側が方丈の大雄苑、奥に見えるのが法堂。

きっと郷里に帰ることなく、日夜寝食や寒暖のことを忘れたように過ごしたのでしょう。教養を磨き続けて気が付いたときには18年もの歳月が流れていました。

なお、この間の雪斎は「九英承菊」と名乗っていたようであり、「雪斎」の名が確認できるのはずいぶん後のようです。

義元の教育係になる

一方で雪斎が京で修行に明け暮れていた頃、駿河の今川家では永正元(1519)年今川氏親と正室の寿桂尼との間に義元(幼名は方菊丸)が誕生します。彼は五男坊であったことから家督の相続権もなく、寺に預けられることになりました。

そんな中、氏親は雪斎の噂を耳にします。秀才である上に重臣・庵原家の子であれば安心と考えたのでしょう。雪斎に駿河に戻って義元の教育係をやってもらえないか、と打診しました。

雪斎はその申し出を二度も断りますが、それでも嘆願する氏親に対してついに根負け。駿河の善得寺で義元の教育係を引き受けることになりました。

これが大永2,3年(1522,23)年頃なので、数え年で雪斎は26, 27歳、義元はわずか3, 4歳の頃になります。

義元の家督相続

各地を修行、人脈を築いていく雪斎と義元

こうした中、今川家では分国法『今川仮名目録』を制定した名君・氏親がその生涯を閉じ、代わって氏親の嫡男である今川氏輝が後継者となります。これが大永6(1526)年のことです。この頃の雪斎と義元は、まだ善得寺におり、優れた門弟として評価されていたようです。

2人の修行はまだまだ続きました。享禄3(1530)年頃には2人して上洛し、かつて雪斎が京で修行した建仁寺にて3年ほど修行を続け、その後はこれに飽き足らず、今度は妙心寺の門を叩いて大休宗休の元で修行を積んだといいます。

このように2人はともに修行を積む一方、たびたび歌会に参加するなど、京都の公家や文化人との交わりを深めて幅広く人脈を築き上げ、その才能や知識は高く評価されたようです。

今川の家督争いが勃発

氏輝の時代は比較的軍事行動も少なく、北条とは同盟関係にあり、甲斐の武田氏とも和解していました。しかし、天文4(1535)年になると、その武田との関係が悪化してしまいます。

これによって自国を脅かされることになった今川氏。雪斎と義元は氏輝から善得寺に戻るように要請を受け、駿河の帰国したのでした。

しかし翌年の天文5(1536)年、二人の運命を一転させる不可解な出来事がおこります。当主の氏輝と義元の次兄にあたる彦五郎の二人が同日に亡くなってしまったのです。

こうして家督とは無縁だった義元の前にいきなり家督相続の道が開きました。雪斎は義元を還俗させて家督相続させようと動きだしますが、そこに ”待った” をかけたのが義元の異母兄である玄広恵探です。

玄広恵探は義元の異母兄ではあるものの、側室の子であったために本来継承権はありませんでしたが、その側室方の実家である今川家の有力家臣・福島氏が恵探を擁立して対抗してきたのです。

こうして家督争いに発展すると、雪斎はすぐさま多数派工作をして恵探派を孤立化させます。恵探方は花倉城に籠城して義元との戦いに及びますが、敗れて自害。

「花倉の乱」と呼ばれたこの内乱ですが、近年の研究では家督争いの枠を超えた今川家中を二分した政権抗争という見方もあります。義元はまだ18歳ですので、義元陣営は当然のごとく雪斎が糸を引いていたことでしょう。

乱を制した義元は還俗して今川家の家督を継承し、名を「今川義元」に改めました。のちに「東海一の弓取り」と呼ばれる戦国大名がここに誕生したのです。

今川氏の政治・軍事の先導者として

花倉の乱を制して義元が今川家第9代当主となると、雪斎は僧籍のままでありながら義元の補佐役も務めるようになりました。

また同じ頃、先代当主である氏輝の菩提寺として駿府に臨済寺が建てられますが、雪斎はここの住職に任命されています。実はこの臨済寺、義元のいる駿府今川館のすぐ近くに位置しており、義元とすぐに会うことができる距離だったのです。

臨済寺の山門
氏輝・義元の墓がある臨済寺の山門(出所:wikipedia

これまでも修行で長い期間ともに歩んできた二人です。これは義元の雪斎に対する絶大なる信頼の表れなのでしょう。住職の身でありながら義元の右腕として今川氏の軍事・政治・文化を先導していくことになる姿を人々は「黒衣の宰相」として恐れたのです。

北条氏と対立(河東一乱)

さて、義元体制となった今川氏ですが、雪斎はこれまでの外交方針を一転させ、関係が悪化していた甲斐の武田信虎に接近して関係改善に努めます。

天正6(1537)年、信虎の嫡子・晴信(のちの武田信玄)に三条公頼の娘を斡旋し、逆に義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎えさせて甲駿同盟を成立させました。ちなみに雪斎が武田家に接近したのはこの年ではなく、前年の「花倉の乱」の時点で結託していたという見方もあります。

しかし、武田信虎と敵対関係にあった北条氏綱はこれを良しとしませんでした。氏綱は今川との同盟関係を破り、駿河国への侵攻を開始するのです。これは "河東の乱" と呼ばれています。

両者の対立は長期化し、一時は駿河東部を北条軍に占領されてしまいますが、天文14(1545)年には雪斎が関東管領・上杉憲政に北条領の背後を脅かさせ、さらに信玄と共同で駿河東部の奪取に成功しています。

三河国を版図に収める

北条軍より河東を奪取した翌天文15(1546)年、隣国の三河国では尾張国の織田信秀(信長の父)が侵攻を開始していました。

当時、今川の庇護を受けていた三河岡崎城の松平広忠(家康の父)は織田の猛攻を抑えることができず、やむなく今川家に救援を要請しますが、この見返りとして嫡男の竹千代(家康の幼名)を今川の人質に出すように要求されます。

しかし、家康が駿河への護送途中のトラブルで織田に売られ、織田の人質となってしまいます。短い間ながら家康が織田の人質だった事のは有名な話ですね。

一方で雪斎は松平の援軍として西三河に侵攻を開始し、天文16(1547)年には三河国・田原城を攻め落とします。さらに翌天文17(1548)年には総大将として三河小豆坂で織田軍を破り、西三河の支配権を得るのです(第二次小豆坂の戦い)。

続いて雪斎は天文18(1549)年に松平広忠が暗殺されたのを機にすぐに岡崎城を抑えると、すぐに西三河の織田軍の最重要拠点である安祥城の攻略に取り掛かりました。

安祥城の城主は信秀の長子であり、信長の異母兄である織田信広です。その信広を生け捕って家康との人質交換の材料としたのです。

笠寺観音にある竹千代と織田信広の人質交換の地の石碑
笠寺観音にある竹千代と織田信広の人質交換の地の石碑(出所:ニッポン旅マガジン

こうして雪斎らは家康を取り戻しますが、まだ幼い家康ではとても三河を治めることなどできません。人質として駿府に置き、その間は今川家が後見を務めることになります。

ここに今川の三河平定が成り、雪斎は義元を三か国(駿河・遠江・三河)の大大名へ押し上げることに大きく貢献したのです。

義元の三河国掌握時の勢力図(1549年頃)
義元の三河国掌握時の勢力図(1549年頃)

雪斎、甲相駿三国同盟を締結させる

今川が勢力を伸ばす一方、尾張国では信秀が亡くなり、うつけ者の悪名高い織田信長が跡を継いでいました。

肥沃な尾張を切り取りたいと考えていたであろう義元主従は後方の安全確保を考えます。そこで武田家から嫁いで来ていた義元の正室である定恵院が亡くなったのを機に、新たに今川、武田、北条の三家にて婚姻を交わしました。

甲相駿三国同盟の略系図
甲相駿三国同盟の略系図
  • 天文22(1552)年11月:武田義信と嶺松院(義元娘)
  • 天文23(1554)年3月:今川氏真と早川殿(氏康娘)
  • 天文23(1554)年12月:北条氏政と黄梅院(信玄娘)

そうはいっても、同時に三家が婚姻同盟を結んだ、というワケではなく、順次それぞれが婚姻を結んで結果的にそうなったようです。

これがいわゆる甲駿相三国同盟であり、これらを斡旋したのは雪斎だったとか。こうして三家とも親戚関係となったことで後方を気にする必要が無くなり、今川家も尾張国の攻略に専念できる環境が整ったのです。

この頃大大名になった義元のことを人々が「東海一の弓取り」と恐れ、称えていた光景が目に浮かびます。が、その影にはいつも黒衣の宰相・太原雪斎が付き従い、八面六臂の活躍があったことを忘れてはなりません。

雪斎死して

義元の影で軍事に外交と大活躍した雪斎でしたが、僧侶としても活躍しています。

臨済寺の住職のみならず、若い頃に義元とともに修行に明け暮れた妙心寺の住持に就任したり、前半生の活動の拠点であった駿河の善得寺を中興させました。

また、天文22(1553)年には今川家にとっての分国法である今川仮名目録33か条の追加21か条の制定と、法にも深く関わっています。

しかし、甲相駿三国同盟も成立させて今川氏の最盛期の中で、雪斎に突然の最期が訪れます。弘治元(1555)年、病に倒れて駿河の長慶寺にて60年の生涯を閉じるのです。今川家にとってあまりにも大きな痛手でした。

『甲陽軍鑑』には、武田信玄の軍師であった山本勘助の言葉として「今川家は雪斎なくてはならぬ家」と記され、竹千代こと後の徳川家康も「義元は雪斎和尚とのみ相談して国政を行ったため、その他の家老の権威が軽くなり、故に雪斎亡き後は国政が整わない」と評した、とあります。

この言葉の如く、雪斎亡き後の5年後に義元は大軍で尾張に侵攻するも、桶狭間合戦で信長率いる寡兵な織田軍の奇襲に遭いあっけなく討ち取られてしまいます。その後の今川家はうそのように没落の一途をたどっていくのです。


【参考文献】
  • 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田 哲男『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 小島 広次『日本の武将31 今川義元』(人物往来社、1966年)





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