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  • 今川義元
 2019/01/22

「太原雪斎」黒衣の宰相と呼ばれた軍略智謀の僧

太原雪斎のイラスト

歴史というものにさほど興味の無い人でも今川義元の名前は知っていることと思います。そしてその姿は織田信長のやられ役としてインプットされていることでしょう。ですがある僧侶が亡くなるまでの義元は英邁の誉れ高い名君であったことを知らない人は多いに違いありません。

今回は「雪斎さえ生きていれば今川義元は桶狭間で討死することはなかった…」と言われ、名君「今川義元」を作り上げ陰日向に支え続けた僧侶こと黒衣の宰相「太原崇孚雪斎(たいげん そうふ せっさい)」の生涯をご紹介します。
(文=趙襄子)

雪斎の誕生と義元との出会い

雪斎は明応5年(1496年)、庵原城主・庵原左衛門尉の子として誕生しました。

庵原家は駿河国庵原郡庵原郷(静岡市清水区)の領主であり、母親は興津家の出身でした。興津家は庵原郡興津郷に領地を与えられ水軍まで持っており、両家ともに今川家の中では譜代の重臣として重きをなしていました。

雪斎が出家した経緯はよく分かっていませんが父である庵原左衛門尉が永世元年(1504年)頃に亡くなったためとも言われています。後を継がずに出家したということは嫡男ではなかったのでしょうがそこは推測するしかありません。

駿河国の善得寺に入った雪斎は初め「九英承菊」と名乗り修行に励んでいたようですが、秀才としてその将来性を買われた雪斎は京にある京都五山の一角である建仁寺で修行をすることになります。

建仁寺は禅宗の一派である臨済宗建仁寺派の総本山であり、この由緒正しい寺にて護国院の常庵竜崇長老の衣服の世話をしたり、唐の禅僧・馬氏道一の故事に習って郷里に帰ることなく日夜寝食や寒暖のことを忘れたように禅の修業に励みながら数学や知識、教養を磨き続け、気付けば18年もの歳月が流れていました。

雪斎が京の建仁寺で修行に明け暮れているころ、駿河の今川家では今川氏親が遠江を平定するなど勢力を大きく拡大している中で永正元年(1519年)、氏親の五男坊として今川義元が誕生しました。

氏親と正室である寿桂尼との間に生まれた方菊丸こと義元でしたが彼が五男坊であったことから家督の相続権が無く、義元は寺に預けられることになりました。

そんな中、氏親は雪斎の噂を耳にします。秀才である上に重臣・庵原家の子であれば安心と考えたのでしょう。雪斎に駿河に戻って義元の教育係をやってもらえないかと打診しました。ですが雪斎はその申し出を二度も断りました。ですがそれでも打診してくる氏親に対し根負けしたであろう雪斎は申し出を受けて駿河に下向し、義元の教育係となったのです。

義元の家督相続

駿河の善得寺にて優れた門弟として評価されている雪斎と義元でしたが、大永6年(1526年)、分国法となる「今川仮名目録」を制定した名君・氏親が53年の生涯を閉じ、代わって氏親の嫡男である今川氏輝が後継者となりました。

家督相続とは無縁である義元は雪斎とともに、かつて雪斎が京で修行した建仁寺で修行することになり研鑽を積んだであろう二人はこれに飽き足らずに妙心寺の門を叩いて大休宗休の元で修行を積み、道号を与えられた義元は「梅岳承芳」と名を改めました。

二人はともに修行を積みながらもたびたび歌会に参加するなど、京の公家や文化人との交わりを深めて幅広く人脈を築き上げ、その才能や知識は高く評価されたのです。

その頃、本国駿河では大変なことが起きていました。甲斐国の守護である武田家との同盟が破談してしまったのです。同盟が破談したことで領国の東側が脅かされることになった兄・氏輝は義元を使うことを思いつき、義元と雪斎両名にかつて修行した善得寺に戻るよう要請を出し二人は駿河に帰国したのでした。

しかし翌年の天文5年(1536年)、二人の運命を一転させる不可解な出来事がおこりました。兄・氏輝と義元の次兄となる彦五郎の両名が同日に亡くなってしまったのです。

家督とは無縁だった義元の前にいきなり家督相続の道が開きました。雪斎も義元の母・寿桂尼と結託し義元を還俗させて家督相続できるよう動きだしましたが、そこに立ちはだかったのが義元の異母兄である玄広恵探です。

義元の異母兄ではあるものの恵探は側室の子であったため本来継承権はありませんでしたが、その側室方の実家である今川家の有力家臣・福島氏が恵探を全面的に支援して対抗してきたものの、雪斎はすぐさま多数派工作を展開して恵探方を孤立させると、恵探方は花倉城に籠城して義元との戦いに及ぶも衆寡適せず義元に敗れ自害。

「花倉の乱」と呼ばれた内乱を制した義元は還俗して今川家の家督を継承し、名を「梅岳承芳」より「今川義元」に改めました。後に「東海一の弓取り」と呼ばれる戦国大名がここに誕生したのです。

黒衣の宰相・太原崇孚雪斎

花倉の乱を制して義元が今川家第9代当主となると、雪斎も僧籍のままでありながら義元の補佐役を務めるようになりました。また、先代当主・氏輝の菩提寺として今川家の本拠地・駿府に臨済寺が建立されるとここの住職に雪斎が任命されました。

駿府今川館のすぐそばに建立された臨済寺は雪斎に対する義元の絶大なる信頼の表れであり、住職の身でありながら義元と二人三脚で今川家の軍事・政治・文化を先導していくことになる姿を人々は「黒衣の宰相」として恐れたのです。そしてその黒衣の宰相の食指はまず甲斐の武田家に向かったのです。

貧しくも最強の国・甲斐を治める武田信虎とは戦っても損害の割に得るものは少ないと考えたであろう雪斎は武田家と同盟を結ぼうと考え、天正6年(1537年)、信虎の嫡男・晴信(後の武田信玄)に寿桂尼の縁戚で京の公家・三条家の姫君である三条の方を斡旋し、義元の正室に信虎の長女である定恵院を迎えた甲駿同盟を締結させました。

しかしこれがきっかけとなり相模の北条家と結んでいた同盟が手切れとなってしまい、北条家はたびたび今川家の国境を侵すようになり河東の乱が勃発。一時は駿河東部を北条軍に占領されてしまいました。しかしそこは雪斎、天文14年(1545年)には関東管領・上杉憲政に北条領の背後を脅かさせ、同盟者の武田晴信と共同で出兵し駿河東部の奪取に成功したのでした。

今川義元・三河国を版図に収める

北条軍より河東を奪取した翌年の天文15年(1546年)、隣国の三河国では尾張国の守護代である織田弾正忠信秀が侵攻を開始していました。三河国岡崎城に本拠を置く松平広忠は縁のある今川家に救援を要請します。これを好機と見たであろう義元は雪斎に大軍を預け西三河を切り取った織田軍を逆襲し、織田方の城である三河今橋城、田原城を奪い返し、一旦は三河国内も落ち着きを取り戻しました。

しかし今度は松平家中での内乱が勃発し、岡崎城を攻められた広忠は仕方なく嫡男・竹千代を今川家に人質に出すことによって救援を得ることができましたが、あろうことかその竹千代は織田信秀の謀略に乗った広忠の舅である戸田康光の手によって信秀の元に送られてしまったのです。

竹千代を取り戻すために雪斎は作戦を立て、雪斎を総大将として今川軍と広忠率いる松平軍が共闘して小豆坂にて織田軍を撃破しました。竹千代を取り戻すために広忠も今は今川家の傘下として励もうと思ったことでしょう。しかし運命はそうならなかったのです。

小豆坂で織田軍を破った翌年の天文18年(1549年)、広忠は岡崎城で家臣の手によって殺害されてしまったのです。「三河物語」によれば広忠を殺害した家臣は織田信秀の息がかかっていたとのことですが真相は定かではありません。

しかしこの行いを予測していたのか今川軍の動きは迅速でした。雪斎を総大将とした今川軍は空白地帯になった岡崎城を押さえると、すぐさま西三河の織田軍の最重要拠点である三河安祥城の包囲に取り掛かりました。三河安祥城の城主は信秀の長子であり、信長の異母兄である織田信広です。その信広を生け捕り、竹千代との人質交換の材料としたのです。

三河国主の血を引く竹千代でしたが、まだ幼くとても三河を治めることなどできないため、その間は今川家が後見を務めることになりました。ここに実質、今川家による三河完全平定は成功したのです。

雪斎、甲相駿三国同盟を締結させる

三河を完全に平定したことによって義元は駿河、遠江、三河3ヵ国69万石の大大名にまで昇りつめていました。そんな義元を人々は「東海一の弓取り」と恐れ、そして称えていた光景が目に浮かびます。その影にはいつも黒衣の宰相・太原雪斎が付き従い八面六臂の活躍をしていましたが、この三国同盟を仕掛けたのも雪斎でした。

尾張では信秀が亡くなり、うつけ者の悪名高い信長が跡を継いでいました。肥沃な尾張を切り取りたいと考えていたであろう義元主従は後方の安全確保に走る必要がありました。そこで武田家から嫁いで来ていた義元の正室である定恵院が亡くなったのを機に、新たに今川、武田、北条の3家にて婚姻を交わしたのです。

まず初めに天文22年(1552年)11月に義元の娘である嶺松院と武田晴信の嫡男である武田義信が、続いて天文23年(1554年)3月に義元の嫡男である今川氏真北条氏康の娘である早川殿が婚姻を結び、同年12月に氏康の嫡男である北条氏政と晴信の娘である黄梅院が婚姻を結びました。

甲相駿三国同盟の略系図
甲相駿三国同盟の略系図

3家とも親戚関係となったことで後方を気にする必要が無くなり、これから尾張攻略と言う時に突然最期の時は訪れたのです。

雪斎死して

義元の影で軍事に外交と大活躍した雪斎でしたが僧侶としても活躍していました。臨済寺の住職のみならず、若い頃に義元とともに修行に明け暮れた妙心寺の住持に就任したり、前半生の活動の拠点であった駿河の善得寺を中興させました。

また天文22年(1553年)には今川家にとっての分国法である今川仮名目録33か条の追加21か条の制定と、法にも深く関わった雪斎でしたが甲相駿三国同盟を締結させた翌年の弘治元年(1555年)、病に倒れた雪斎は駿河の長慶寺にて60年の生涯を終えました。

晴信こと武田信玄の軍師であった山本勘助の言葉として甲陽軍鑑には「今川家は雪斎なくてはならぬ家」と記され、竹千代こと後の徳川家康も「義元は雪斎和尚とのみ相談して国政を行ったため、その他の家老の権威が軽くなり、故に雪斎亡き後は国政が整わない」と評したとあります。

この言葉の如く、雪斎亡き後の5年後に義元は大軍で尾張に侵攻するも、桶狭間で信長率いる寡兵な織田軍の奇襲に遭いあっけなく討ち取られ、その後の今川家は嘘のように没落していくのです。





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