「雪斎さえ生きていれば…」今川家に不可欠な存在だった?桶狭間前に逝った天才・太原雪斎の智謀
- 2025/11/06
「今川義元」という名は知っていても、そのイメージは織田信長に討たれた悲劇の大名かもしれません。では、その義元を陰から支え、今川家を戦国屈指の大国へと押し上げた影の立役者をご存知でしょうか?
今回は「雪斎が生きていれば、義元は桶狭間で討死しなかった」とまで評される稀代の軍師・太原崇孚雪斎(たいげん そうふ せっさい)の生涯と、彼が今川家にもたらした偉大な功績、そしてその死が招いた今川家の運命について、詳しく追っていきます。
今回は「雪斎が生きていれば、義元は桶狭間で討死しなかった」とまで評される稀代の軍師・太原崇孚雪斎(たいげん そうふ せっさい)の生涯と、彼が今川家にもたらした偉大な功績、そしてその死が招いた今川家の運命について、詳しく追っていきます。
雪斎の誕生と義元との出会い
雪斎は明応5年(1496)、今川家の譜代重臣であった庵原家の子として誕生しました。庵原家は駿河国庵原郡の領主であり、母親が水軍を擁する興津家の出身であったことから、両家ともに今川家の中では重きをなしていました。一説に永世元年(1504)頃に父の死をきっかけとして出家したとされます。家督を継がなかったので、彼は嫡男ではなかったと推測されます。
雪斎は駿河の善得寺で修行を始めた後、その非凡な秀才ぶりから将来性を買われ、都の京都五山の一つ、建仁寺に移って研鑽を積むことになります。建仁寺は臨済宗の総本山であり、雪斎はここで18年もの長きにわたり、ひたすら禅の修業に没頭し、高い教養と見識を身につけました。
義元の教育係になる
雪斎が京で修行に明け暮れていた頃、駿河の今川家では永正16年(1519)に今川氏親と正室・寿桂尼の間に、後の義元となる方菊丸(五男)が誕生しました。家督相続権がないため、幼くして寺に預けられることになります。氏親は、学識が高く、重臣の家柄である雪斎に目をつけ、駿河に戻って方菊丸の教育係を務めてもらえないかと打診します。雪斎は一度は固辞しますが、氏親の度重なる懇願に根負けし、駿河の善得寺で教育係を引き受けることになりました。
これが大永2~3年(1522~23)頃。雪斎20代後半、義元3~4歳という幼少期から、二人は師弟として特別な絆を結ぶことになります。
各地で修行を重ね、人脈を築く
氏親の死後も、二人の修行は続きました。享禄3年(1530)頃には二人揃って上洛し、建仁寺や妙心寺などで修行を重ねています。この間、彼らは歌会への参加などを通じて、京都の公家や文化人と積極的に交流し、幅広い人脈を築き上げました。この教養と人脈は、後の雪斎の外交戦略の大きな基盤となります。義元苦難の家督相続と「黒衣の宰相」の誕生
氏輝の治世を経て、天文5年(1536)に当主の氏輝と次兄の彦五郎が同日に急死するという不可解な出来事が発生し、義元に突如として家督相続の道が開かれます。雪斎はすぐさま義元を還俗させて家督を継承させようと動きますが、異母兄の玄広恵探が有力家臣・福島氏に擁立され、家督争い「花倉の乱」が勃発します。この内乱は、近年の研究では家督争いの枠を超えた今川家中を二分する政権抗争という見方もあります。
この政権抗争において、雪斎は卓越した政治的手腕を発揮しました。彼は多数派工作によって恵探派を孤立させ、武力で鎮圧。乱を制した義元は正式に今川家の家督を継承し、今川義元を名乗ります。当時まだ18歳の義元を支え、今川家中を二分した内乱を勝利に導いたのは、疑いようもなく雪斎の智謀でした。
義元が今川家第9代当主となると、雪斎は僧籍のままでありながら義元の補佐役に就任しました。彼は氏輝の菩提寺である臨済寺の住職も務めますが、この寺は義元のいる今川館のすぐ近くに位置していました。
これは、義元が雪斎に公私にわたる絶大なる信頼を寄せ、常にその知恵を必要としていたことを示しています。住職の身でありながら、義元の右腕として軍事・政治・文化を指導し、八面六臂の活躍を見せた雪斎を、人々は「黒衣の宰相」と呼び、その存在を恐れたのです。
雪斎の偉大な功績の数々
外交戦略の一手、北条氏の撃退
義元体制確立後、雪斎は外交方針を一転させ、それまで対立していた甲斐の武田信虎に接近。婚姻による甲駿同盟(1537)を成立させました。これに反発した相模の北条氏綱は駿河に侵攻し、「河東の乱」が勃発。駿河東部を北条軍に占領されます。長期化したこの対立に対し、雪斎は単なる武力ではなく巧みな戦略で臨みました。天文14年(1545)、雪斎は関東管領の上杉憲政に北条領の背後を突かせると同時に、武田信玄と共同作戦を展開。これにより北条氏を退け、駿河東部の奪還に成功しました。
三河平定と人質奪還
今川の勢力拡大において、雪斎の最大の功績は隣国三河の平定です。織田信秀の侵攻に苦しんでいた三河岡崎城の松平広忠(家康の父)は、今川家に救援を求め、見返りとして嫡男の竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出します。しかし、竹千代は護送途中で織田方に奪われてしまいました。一時期、家康が織田家の人質になっていたことはよく知られています。
雪斎はすぐに行動を起こします。天文17年(1548)には総大将として三河小豆坂で織田軍を破り、西三河の支配権を確立。さらに天文18年(1549)には織田軍の重要拠点であった安祥城を攻略し、城主の織田信広を生け捕ります。そしてこの信広を材料に人質交換を行い、織田に奪われていた竹千代(家康)を取り戻したのです。
雪斎は、三河の平定を成し遂げると、幼い家康を人質として駿府に置き、今川家が三河の後見を務めることで、義元を駿河・遠江・三河を治める大大名へと押し上げました。
外交の集大成となった甲相駿三国同盟
三河を平定し、尾張攻略を目前にした義元主従にとって、後方の安全確保は最重要課題でした。そこで雪斎は再び外交手腕を発揮し、今川、武田、北条の三家が婚姻を通じて同盟を結ぶよう斡旋します。義元の正室・定恵院(武田信虎の娘)の死を機に、以下の婚姻が順次締結されました。
- 天文22年(1552)11月:武田義信と嶺松院(義元娘)
- 天文23年(1554)3月:今川氏真と早川殿(氏康娘)
- 同年12月:北条氏政と黄梅院(信玄娘)
これがいわゆる甲駿相三国同盟です。この同盟により、後方を完全に固めた今川家は、まさに「東海一の弓取り」として天下を窺う最盛期を迎えることになります。
雪斎死す。今川家の没落へ
義元の影で軍事・外交を支えた雪斎でしたが、僧侶としても、妙心寺の住持に就任したり、今川家の分国法『今川仮名目録』の追加条項の制定に関わるなど、その活躍は多岐にわたります。しかし、今川氏が最盛期を迎えた弘治元年(1555)、雪斎は病に倒れ、駿河の長慶寺にて60年の生涯を閉じます。
雪斎の死は、今川家にとって致命的な痛手となりました。
武田信玄の軍師・山本勘助が『甲陽軍鑑』で「今川家は雪斎なくてはならぬ家」と記し、また後の徳川家康も「雪斎亡き後は国政が整わない」と評した言葉は、彼の存在の大きさを物語っています。
この言葉の如く、雪斎亡き後のわずか5年後、義元は大軍を率いて尾張に侵攻しますが、桶狭間合戦(1560)で織田信長率いる寡兵の奇襲に遭い、あっけなく討ち取られてしまいます。
黒衣の宰相という知恵袋を失った今川家は、この日を境に没落の一途をたどることになるのです。
【参考文献】
- 有光友学『人物叢書 今川義元』(吉川弘文館、2008年)
- 小和田哲男編『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
- 小島広次『日本の武将31 今川義元』(人物往来社、1966年)
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