「西丸下の爺」と呼ばれた老中・松平武元とはどんな人物なのか?
- 2025/01/05
松平武元(まつだいら たけちか、1714~79)は徳川吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕えた老中です。特に10代将軍の徳川家治からの信頼は厚く、「西丸下の爺」と呼ばれていました。これは家治が将軍に就任する前、まだ西の丸に住んでいた頃に松平武元が西の丸老中を務めていた関係で、古くからの顔なじみであったからです。
また、松平武元は家治が崇拝する8代将軍・徳川吉宗に直接仕えていたこともあり、家治は絶対の信頼を抱いていたようです。しかし松平武元に関する資料は多くは残されていません。そのため歴史家の間でも評価は真っ二つに分かれている老中です。では、どちらが正しいのかを検証してみましょう。
また、松平武元は家治が崇拝する8代将軍・徳川吉宗に直接仕えていたこともあり、家治は絶対の信頼を抱いていたようです。しかし松平武元に関する資料は多くは残されていません。そのため歴史家の間でも評価は真っ二つに分かれている老中です。では、どちらが正しいのかを検証してみましょう。
松平武元についての評価
現代の歴史家の松平武元に対する評価は以下の2つに分かれます。- 田沼意次が推し進めた財政政策は実は松平武元の考案であり、優れた財政感覚を持っていた人物
- 幕府・将軍家の慶事、及び弔事一切を取り仕切っていただけの人物
しかしいずれの説も確たる証拠はなく、どちらとも言えないのです。
家治は宝暦10年(1760)に将軍就任してから、松平武元が生きている間は政治に興味を示し、積極的に意見も出していました。しかし武元亡き後には興味を失って、以後は政治に一切関わらなくなったことから、武元は多少なりとも政治に関わっていたと考えられます。
当時はちょうど田沼意次が台頭してくる時期でもありました。武元の死後に田沼意次が幕政を取り仕切り、家治もそれを容認したという事実から、案外に田沼の財政政策のいくつかは武元の発案であった可能性も考えられます。
しかし、田沼意次は以後も独自の財政政策を実施していったという点から見て、全ての政策が松平武元の考案という説には同意しかねます。また、これらの事実から単に慶事、弔事だけを取り仕切っていただけの人物、という意見にも同意しかねるのです。
側用人の時代
田沼意次は老中就任時(1772)には、既に側用人を務めており、老中と側用人の両方を兼務した数少ない人物です。側用人とは、本来は老中と徳川将軍の間を行き来する連絡係が役割でしたが、自分の意見を将軍に述べることもできたので、実質的に政治の一端を担ってもいました。むしろ将軍に直接に意見が言える側用人の方が老中よりも政治的立場としては強い物があったのです。これを「側用人政治」と言います。
9代将軍・徳川家重は言語が不明瞭であり、それを理解できたのは側用人である大岡忠光ただ一人であったことから、大岡忠光は実質的に老中よりも強い権力を持っていました。しかし彼は野心家ではなく、優れたバランス感覚の持ち主であったために事なきを得たのです。
このように老中よりも側用人の方が権勢を得ている時代は多く、田沼時代も側用人の時代であったといっても過言ではないでしょう。つまり田沼意次が権勢をふるうことができたのは、老中だったからではなく、側用人も兼務していたからなのです。
田沼時代の武元の立場
松平武元は老中であり、側用人ではありませんでした。その点では既に側用人であった田沼意次に一歩、譲らざるを得ない立場にあったと言えます。ただ、田沼意次とは協力関係にあったようで、両者間に対立があったという話は全く残されていません。8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」を目の前で見ていた武元は、この改革の問題点も見えていたように思われます。ですので、その問題の対応に追われている田沼を手助けしたい心理だったのではないでしょうか。対立どころか、むしろ助言を与えていた可能性が高く、そうした意味で武元は田沼政策の一端を担ったのではないか、と思われるのです。
また、幕府というのは、年がら年中、儀礼的な式典を行っており、それらの煩雑な式典ルールを熟知して取り仕切る人物が必要だったというのも事実です。田沼意次が享保の改革の後始末に専念できたのは、武元がそういった儀礼的な式典の取り仕切り一切を担当してくれたからではないでしょうか?
それは単に松平武元が西の丸老中をしていたから、ということではなく、奥向きの儀礼的な式典について詳細な知識を持っており、それらを取り仕切っていたからと考えると納得がいきます。家治が松平武元を「西丸下の爺」と呼んでいた意味も少し理解できるのです。
あとがき
決して知名度が高いとは言えない松平武元ですが、1つの歴史には必ず光と影の部分があり、武元は影の部分を引き受けてくれた人であったと言えそうです。まさに縁の下の力持ちという役割を引き受けていたのではないでしょうか。光と影は表裏一体の関係にあり、どちらが欠けても成立しないこを考えると、松平武元という人物の重要さがあらためて理解できるのではないかと考えられるのです。
【主な参考文献】
- 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版、1994年)
- 山本博文『お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道』(新潮社、2007年)
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