福島正則は、幼いころから秀吉に仕え、いわゆる「子飼い」家臣の一人です。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで一番槍の働きをしたことで、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられています。
豊臣恩顧の大名の代表ともいうべき福島正則ですが、秀吉死後、石田三成とは反りが合わず、徳川家康に接近します。家康が豊臣大名を率いて会津攻めに向かったとき、三成が挙兵し、その情報が下野の小山まで進んでいた家康のもとに届けられ、そのまま上杉攻めを続けるか三成との戦いのため兵を戻すかの小山評定が開かれました。
その評定はなかったとする新説がでてきたことと、合わせて、真っ先に「三成を除くため、家康殿と戦いたい」と正則が発言をしたということにも疑いをもつ研究者もあらわれ、議論されているところです。
関ケ原町歴史民俗学習館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」にも、福島正則陣跡に立つ「月見宮大杉」が描かれており、樹齢800年とのことなので、関ケ原の戦いの時点でも400年そこに立っている木ということになり、兵たちの目印になっていたことでしょう。
岐阜関ケ原古戦場記念館 : https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/