「どうする家康」徳川家康が三河一向一揆と和議を結ぼうとした非情な理由
- 2023/03/07
大河ドラマ「どうする家康」では、松平(徳川)家康と三河一向一揆勢との熾烈な戦いが描かれていました。家康の家臣の中にも、一揆勢に加わる者が多数出るという深刻な事態。
永禄7年(1564)1月から本格的な戦が始まるのですが、一揆勢が、家康方の大久保一族が籠る上和田砦(愛知県岡崎市)に攻め寄せることもありました。奮戦する大久保一族。「竹の筒の貝」が吹かれると、家康が馬に乗って救援に駆けつけてくれることもありました。家康が先頭になり、姿を現すと、一揆勢の者どもは「家康様が来たぞ。早く引け」ということで、退却していったようです。先日まで仕えていた主君に槍を向けるのを、彼らは嫌がったのでした。
大久保一族が、一揆方の拠点に攻めていくこともありました。戦う大久保一族のなかには、当然、負傷者が出ています。一進一退の攻防が繰り広げられますが、同年2月の小豆坂(愛知県岡崎市)などでの戦いにおいて、家康方が勝利したことにより、流れが変わってきます。
敗戦により、厭戦気分が広がる一揆勢。一揆方から和議の話が出てくるのです。一揆方の蜂屋半之丞が、家康方の大久保忠佐を呼び出して「和議を結びたい」と持ちかけたのです。そのことを家康に告げると「早くせよ」との仰せがありました。
一揆方は「敵対したことを許して頂けるのならば、有り難いです。また、寺も前のように残してください。一揆を企てた者もお許し頂ければ、有り難く存じます」と提案してきます。それに対し、家康は「和議を結ぼうという者の命は助けよう。寺も元のように置こう。だが、一揆を企てた者は処罰するだろう」との考えを披露します。一揆方はそれでも「寺を元のように置いて、一揆を企てた者も許してください」と頼み込んできました。
家康としては、一揆方の提案は虫が良すぎるとの想いがあったのでしょう。和議は一旦、進展しなくなりました。その時、家康を説き伏せたのが、大久保忠俊でした。忠俊は家康に次のように告げたと言います。
「一揆勢との戦により、倅の新八郎は眼を射抜かれました。甥の新十郎も眼を射抜かれ、その他、子供で負傷しないという者はおりませんでした。そうした時、家康様が駆けつけて来てくださった。すると、一揆勢は逃げ出していきました。大久保一族の者が血を流していることは、家康様もご覧になったと思います。それに免じて、一揆を企てた者の命をお助けください。一揆勢と和議を結び、彼らに先陣を担当させれば良いのです。そうすれば、敵対している吉良義昭殿や、松平家次殿にも勝つことができるでしょう。和議を結ばれよ」と(『三河物語』)。
「それなら許そう」ということで、家康は、一揆を企てた者も許す、寺も元のように置くとの起請文(誓約書)を書いて、一揆方と和議を結びます。家康が一揆勢と和議を結ぼうとした理由は、大久保一族の面子を立てるということもあったかもしれませんが、和議を結んだ上で、元・一揆勢の者たちを敵対する勢力との戦に投入するという非情なものでした。
家康は、和議を結び、一揆方を武装解除した後で、起請文の内容をかなぐり捨て、一向宗寺院の堂塔を破壊し、敵対した者を追放します。それによって、家康を苦しめた三河一向一揆は鎮圧されたのでした。
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