エレベーター故障で始まった? 明治の日本初「美人コンテスト」誕生秘話
- 2026/04/01
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江戸時代には美人番付まで発売され、庶民の娯楽として定着していましたが、日本で組織的な美人コンテストが産声を上げたのは、明治に入ってからのことでした。
始まりは窮策から? 会場は浅草のシンボル「凌雲閣」
明治23年(1890)に東京・浅草に誕生した「凌雲閣(りょううんかく)」、通称・浅草十二階。当時としては驚異的な高さを誇るこの塔は、東京一の名所として鳴り物入りで開業しました。
しかし、最大の目玉であったエレベーターが、開業からわずか半年で運転停止に追い込まれるという事態に見舞われます。というのも度重なる故障と、当局からの「安全性が確保できない」という厳しいお達しがあったからですが、客足が遠のくことを恐れた凌雲閣は頭を抱えました。
「目玉がなくては客が呼べぬ。何としたものか…」
そこで思いついたのが美人コンテストです。何時の時代も男を引き寄せるには美人が一番。『東京百美人』と銘打った美人コンテストを開催することになります。
翌明治24年、エレベーターの止まった凌雲閣の長い階段の壁には、美人と評判の100人以上の芸妓の顔写真が並べられました。この中から来場者に投票で選んでもらうのです。階段の壁に張りだしたのは、「エレベーターがないなら、写真を見ながら楽しく上まで歩いてもらおう」という、運営側のしたたかな魂胆です。
17歳の「玉菊」が初代クイーンに
総投票数は予想を大きく上回る4万8000票。1位から5位まではそれぞれ2000票以上を獲得する接戦となります。当時の芸妓にとって、この順位は単なる名誉ではありません。順位が芸妓としての評価としてお座敷の指名数をも左右しますから、彼女たちも贔屓客(パトロン)に頼んで投票してもらったりと懸命です。結果、記念すべき1位に輝いたのは、新橋芸妓「玉川屋玉菊(たまがわや たまぎく)」、当時17歳、得票数は2163票でした。玉菊は開催前から下馬評も高く、本命でした。その容姿は卵に目鼻の顔立ちで、現代の美的感覚から見ても綺麗な女性です。
続く2位は、同じく新橋の「相模屋桃太郎(さがみや ももたろう)」19歳。1位とはわずか33票差の得票数2130票でした。桃太郎は新橋一の踊りの上手と言われ、こちらは若衆にでもしたいようなきりっとした顔立ちの江戸前美人です。
さらに3位も新橋芸妓の「津の国屋吾妻」17歳、得票数2054票でランクイン。驚くべきことに一人で50票も入れた客もいたとか。今で言う「推し活」の熱量は、明治時代すでに完成されていたのですね。
大盛況だったこのコンテストはその後3回まで続けられました。同時に『東京百花美人鏡』と名付けた写真集も発売されます。1枚のプレートに12人の芸妓が配された計9枚のプレートが印刷され、このコンテストに応募したすべての芸妓が収められています。
今度は新聞社が主催
明治40年(1907)、美人コンテストは新たな局面を迎えます。アメリカの新聞社であるヘラルド・トリビューン社が時事新報社に対し、「世界一の美人選抜に日本からも参加してほしい」と持ち掛けます。これを受け、翌年には日本全国の新聞社が連動して美人写真を募集します。
今回の特徴は、プロの芸妓や女優ではなく「素人女性」を対象としたことでした。さらに、当時は画期的だったスリーサイズの明記まで求められる本格的なものです。優勝者にはダイヤモンドの指輪と賞金3000円(現在の価値で2000~3000万)が贈られるとあって、全国から自薦・他薦の応募が7000件もありました。
『全国美人写真審査』と銘打って、まずは各都道府県で地区予選が行われます。その後、彫刻家の高村光雲や歌舞伎役者の中村芝翫・医学者ら著名人13人で厳正な最終審査を実施し、12等までの美人を選び出します。選び抜かれた上位3人は日本代表として『サンデートリビューン紙』に写真が掲載されました。
1位に輝いた少女を襲った悲劇
時事新報社は『日本美人帖』として、地区予選を勝ち抜いた214名の美女を掲載した写真集を発売します。このとき1位に輝いたのは福岡代表、16歳の末広ヒロ子でした。
福岡県小倉市長の四女であった彼女は、清純かつ気品に満ちた美貌の持ち主でしたが、実はこの応募、本人の知らないところで義兄が無断で行ったものでした。思わぬ形で「日本一の美人」となったヒロ子ですが、当時の社会はまだ保守的でした。彼女が通っていた学習院女学部は、コンテスト出場を問題視。あろうことか、ヒロ子を退学処分にしてしまいます。
「浮ついた美人コンテストに応募し写真を世間に晒すなど何事か」ってわけですが、何も知らなかったヒロ子にすれば、寝耳に水のとんだ災難でした。
当時の学習院院長は、あの乃木希典(のぎ まれすけ)大将ですが、ヒロ子の退学処分に反対はしていません。しかし後に応募がヒロ子の意志ではなかったという真相を知ると、乃木は自責の念に駆られたのでしょう。ヒロ子にしかるべき男性との縁談話を持ち掛けています。
「大日本」を誇示?美男子コンテストも開催
美への探求は女性だけに留まりません。明治43年(1910)、今度は毎日新聞の前身である毎日電報が「日本の代表的美男子を募集す」と題して、美男子写真を集めにかかりました。これには約1000通の応募があり、優勝したのは加賀百万石前田家の末裔である前田利彭(としちか)でした。翌年1月1日付の紙面に掲載されたコンテスト応募写真は、実にバラエティに富んでいます。上半身裸の筋骨隆々たる男子、力士と思われるちょんまげ姿、ハイカラーシャツにちょび髭の紳士のすまし込んだ様子など…。記事の募集文句には「正しく強く品位あり、膨張的大日本を代表する堅固な意志と優味を映出した…」と、なかなか高レベルの男子を求めています。
審査員には洋画家の黒田清輝や作家の巌谷小波(いわや さざなみ)など、著名人17名が名を連ね、中には女性審査員も1名含まれていました。
興味深いのは、「俳優や芸人は資格なし」と明言されていた点です。富、社会的地位、知性、そして徳。これらを兼ね備えた「立派な男子」を世界に示すことで、日露戦争に勝利した日本の国力を誇示しようという、多分に政治的な意図も孕んだコンテストだったのです。
おわりに
明治時代の終わりにかけて、美人コンテストは雑誌メディアへと波及。明治41年(1908)には雑誌『文藝倶楽部』でも芸妓の美人コンテストが開催されました。日本百美人と銘打って100人の選ばれた芸妓の写真を掲載し、読者が投票する形です。ここで9万票という圧倒的な支持を得て1位となったのが、赤坂の芸妓・萬龍(まんりゅう)でした。
彼女は元々、当時流行していた「絵ハガキ」の美人モデルとして有名であり、このコンテスト優勝を機に、三越やカブトビールのポスターにも採用され、日本一の美人と謳われました。
凌雲閣の集客策から始まり、新聞社による国威発揚、そして雑誌メディアの広告ビジネスへと姿を変えていった明治の美人コンテスト。それは単なる美の競演に留まらず、新しいメディアと共に猛烈な勢いで近代化を突き進んだ、この時代そのものの写し鏡だったといえるでしょう。
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