刀都・関と孫六兼元の系譜を読み解く
- 2024/12/13
岐阜県関市は、日本刀の歴史と文化を語る上で欠かせない名所です。「刀都」として知られる地として、鎌倉時代末期から刀工たちの聖地として栄え、多くの名工が誕生しました。その中でも、室町時代後期に活躍した「孫六兼元」は、技術と美を兼ね備えた刀工として、日本刀史に名を刻む刀工です。
今回は、2024年7~9月に関鍛治伝承館で開催された企画展「刀都関の名工 孫六兼元~刀工集団と名工誕生」の内容をもとに、孫六兼元の歴史的背景や刀剣の特徴、彼らが築いた系譜について深く掘り下げます。
今回は、2024年7~9月に関鍛治伝承館で開催された企画展「刀都関の名工 孫六兼元~刀工集団と名工誕生」の内容をもとに、孫六兼元の歴史的背景や刀剣の特徴、彼らが築いた系譜について深く掘り下げます。
孫六兼元とは?
「孫六兼元」(まごろくかねもと)は、室町時代後期(16世紀)に活躍した関鍛治の一人で、刀工銘に「兼元」を使用する。当時、「兼元」という銘を用いる刀工は複数存在しました。その中でも二代目にあたる兼元は、その優れた技術によって「孫六」と称されています。「三本杉」の刃文
特徴付けるのが、「三本杉」の刃文です。これは、互の目(ぐのめ)の頭が尖って背丈の異なる杉の木のようになり、3本ごとにほぼ規則的に頭が深く焼かれた連続模様をさします。初期の孫六兼元の刃文は、現代の三本杉ほど整然とした形状ではなく、丸みを帯びた不規則な三本杉のような模様でした。この刃文は後代の兼元たちによって継承され、次第に完成度を高められていきました。切れ味と評価
孫六兼元の刀剣は、優れていた切れ味が特徴。江戸時代に将軍御試御用として刀の試し斬りと死刑執行人による罪人の斬首も請け負っていた山田浅右衛門(やまだあさえもん)によって評価されました。日本刀の切れ味を基準に刀工を格付けした中で最上位である「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)の一つに数えられました。孫六兼元の系譜と歴史
文献で「孫六」や「兼元」という語句を探すと、『新刊秘伝抄』天正十九年(1591)、『関目録 幷見様秘詿抄』元和9年(1623)等に記述がみうけられます。刀剣書の記録によると、慶長年間頃(1596~1615)には、「孫六」や「兼元」という刀工の存在が確認されています。
また、「孫六兼元」が確立されたのは、江戸時代以降に多数出版されるようになった鍛冶系図が大きな役割を果たします。特に宝徳2年(1450)に記された「美濃国鍛治系図」(以下、宝徳系図)を基に、江戸時代にはさらに加筆が加えられたり、別の系図が作られました。
代表的な4系統
「孫六兼元」や「兼元」について記された系図の中で大きく4種類に分類できます。- 兼則(三阿弥派)系統:「宝徳系図」
- 兼定系統:「古今銘尽」
- 赤坂孫六系統:「古今銘尽」(ここんめいづくし)
- 兼宗(良賢派)系統:「古刀銘盡大全」(ことうめいじんたいぜん)
また、「孫六」を名乗る刀工も複数存在しており、一説では、関鍛治が「孫六兼元」の初期銘や兄弟弟子であるとされています。
「兼安(得印派)系統」の兼並、「兼宋(良賢派)系統」の兼基、「久阿(奈良派)系統」の兼幸などが挙げられます。
こうした複数存在した「兼元」・「孫六」と号した鍛冶たちが積み重なって統合された「孫六兼元」が確立されたのかもしれません。
関鍛治と刀工集団の影響
孫六兼元の出自や系譜が曖昧である背景には、関鍛治が刀工集団として活動していたことが大きく関係しています。室町時代に戦乱が続く中で、武器の需要が高まり、関鍛治は師弟関係や流派ごとに集団を形成して刀剣の大量生産を行ったと考えられます。このような集団的な活動が、同じ銘を持つ刀工が複数存在する要因となり、系譜を複雑化させました。
「濃州赤坂住」の孫六兼元
「濃州赤坂住」と記された孫六兼元は、その中でも明確に系統が特定されています。現在の岐阜県大垣市赤坂周辺で活動した赤坂千手院派は、大和国千手院派(せんじゅいんは/大和国で平安時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工一派。大和五派の中で最も古い流派で、東大寺の子院である千手院に従属し、日本刀の制作の流れをくむ刀工集団で、「国長」や「国行」といった代表刀工が存在)の流れを汲む刀工集団で、室町時代から南北朝時代(1336~1392年頃)にかけて名を馳せました。
また、大和国千手院派の国長の末裔と伝わりますが、作風は異なっています。千手院派の特徴は、太刀姿は「こし」(こしぞり)で、刀の厚みがあります。刃文は直刃に「小乱」(こみだれ)が交じります。それに対して、刀工銘に「兼」の文字を用いる点や、「三本杉」といった刃文などの特徴は、関鍛治との類似点が強く現れています。
初代から三代までの孫六兼元
初代から3代目までの孫六兼元を取り上げ、それぞれの活動時期や特徴を整理します。初代孫六(2代兼元/生没年不明)
初代孫六は、大永2~天文6年(1522~1545)頃に活躍しました。彼は初代兼元の養子となり、祖父にあたる兼久(六郎左衛門/鍛刀期:1411~1420年頃)の孫であったことから「孫六」を名乗りました。その刀剣は、尖り互の目が連続し、杉の木立のように美しい刃文を得意とし、「最上大業物」として名を馳せました。二代孫六(3代兼元/生没年不明)
二代孫六は、赤坂を拠点に活動しました。初銘は「兼茂」でしたが、大永から享禄期(1521~1532年)にかけて「孫六」の銘を刻むようになりました。刀の特徴として、刃文が揃った3本すぎで、『古今鍛冶備考』には「大業物」として評価されています。三代孫六(4代兼元)
三代孫六は、二代孫六の甥である三郎衛門兼辰が継ぎました。彼は天文(1532~1555年)・永禄(1538~1570年)にかけて赤坂の西部である山田地区で活動し、その後、関に移住しました。弟子を抱え、刀匠として活躍したと考えられています。まとめ
初めて2024年7月に関市へ訪れました。名古屋から関市まで高速バスで約1時間20分ほどでいくことができます。周辺は、緑に囲まれたのどかな田舎街でした。関鍛冶伝承館の周辺には、孫六兼元のゆかりの地が残っています。その中で善光寺を訪れ、元禄13年(1700)に金子孫六が寄進した半鐘「孫六の鐘」を鳴らしました。良い響きで寄進した金子孫六は何を感じていたのでしょうか?
「せきてらす」という観光案内所では、関市ならではの商品もあり、包丁といったものが多かったです。ゆかりの地を訪れることで刀剣以外から刀工たちの思いや生きざまを感じ取ってみることも一興です。
【主な参考文献】
- 金子征史『関の孫六 (孫六兼元) の系譜 : 他 : 祖から末裔へ 改訂第2版』(2015年)
- 関鍛冶伝承館企画展「孫六兼元 刀工集団と名工誕生」
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