京都三条の定番「土下座像」の主、明治維新を100年早めた高山彦九郎とは何者か?

  • 2026/07/13
京都三条大橋にある高山彦九郎の土下座像
京都三条大橋にある高山彦九郎の土下座像
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 京都・三条大橋東側、京阪電鉄三条駅(京都市東山区)近くに「土下座像」があり、定番の待ち合わせ場所になっています。しかし、銅像の人物が誰なのか、あまり知られていません。

 銅像の主は、江戸時代中期の思想家・高山彦九郎(たかやま・ひこくろう、1747~1793年)といい、旅先で切腹し、吉田松陰をはじめ幕末の志士に影響を与えた「寛政の三奇人」の一人です。

 彼はなぜ切腹したのか、そしてどんな功績を残したのか。高山彦九郎の生涯を追います。

土下座ではない 王政復古の先駆者

 この銅像、実は土下座の姿ではありません。「土下座像」はあくまで通称。「高山彦九郎皇居望拝之像」といい、御所(皇居)に向かい、ひざを屈して拝礼している姿です。明和元年(1764)、京に来て、号泣しながら「草莽(そうもう)の臣、高山彦九郎です」と拝礼したエピソードに基づいています。「草莽」とは官職に就いていない在野の者です。

 この像はふけ顔ですが、この時の彦九郎はまだ18歳。明治維新の約100年前、江戸幕府の権力が揺るぎない時代に尊皇の血をたぎらせた青年だったのです。

草莽の風雲児たち「寛政の三奇人」

 高山彦九郎は林子平(はやし・しへい)、蒲生君平(がもう・くんぺい)と並び「寛政の三奇人」の一人に数えられます。この場合、「奇人」は「奇妙な人、変人」ではなく、「優れた人物」を意味しますが、その発想力や思想の方向性に「奇想天外」のニュアンスも含まれます。

海防の先駆者、林子平(『偉人史叢  林子平』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
海防の先駆者、林子平(『偉人史叢 林子平』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 当時、中央の学界には「寛政の三博士」といわれた高名な知識人たちもいましたが、彼らと比べると「三奇人」はやはり在野の風雲児といえます。

 林子平は海外に目を向けた開明思想家の一面もあり、戦後も肯定的に評価されてきましたが、彦九郎と君平は戦前の評価が仇となりました。しかし、彼らは学問を通して思想を磨き、あくまで言論で主張しています。現代的なアプローチを持っていたといえます。

田沼時代と重なる20~30代

 高山彦九郎の出生地は上野国新田郡細谷村(群馬県太田市)。「彦九郎」は仮名で、諱(いみな、実名)は「正之」、字(あざな、諱以外の名)は「仲縄(ちゅうじょう)」です。「金山」「赤城山人」といった号も名乗り、その生涯は学問と旅に尽きます。

 父は高山正教(彦八)。郷士という武士待遇を受ける豪農でした。なお、正教は明和6年(1769)、何者かに殺されています。

 また、彦九郎の20代から30代は、ちょうど「田沼時代」と重なります。田沼意次が側用人に取り立てられた明和4年(1767)に彦九郎は21歳、意次が失脚した天明6年(1786)には40歳を迎えていました。

ルーツは義貞忠臣・新田十六騎

 高山彦九郎の先祖は新田義貞に仕えた新田十六騎の一人、高山重栄(しげひで)。高山氏は秩父平氏の一族で、重栄の父・時重が元弘3年(1333)、鎌倉幕府を攻める義貞の挙兵に従い、分倍河原の戦いで戦死。重栄はその後も義貞に従いました。

 彦九郎は13歳の時に『太平記』を読み、この先祖の活躍を知ります。新田義貞が命懸けで後醍醐天皇や南朝に仕えながらも、宿敵である足利尊氏を倒せなかったことに悔しさを募らせた彦九郎は、後に京へ上った際、尊氏の墓を300回も鞭打つという奇行に出ています。

 ちなみに、彦九郎が生まれた延享4年(1747)5月8日は、奇しくも先祖が従った新田義貞挙兵の日からちょうど414年後にあたる日でした。

天明飢饉の惨状を記録した『北行日記』

 高山彦九郎は安永2年(1773)から約20年間、克明な旅日記を残します。北海道、四国、沖縄を除く日本全国を歩き回り、各地の地誌や伝聞、自然災害、打ち壊しなどの社会状況を記録。人脈も幅広く、公家、藩主藩士、文化人、商人、農民など幕臣から在野の人まで身分を超えて約2500人と交流しました。

東北に残る大飢饉の爪痕

 寛政2年(1790)に東北を旅した彦九郎は『北行日記』で天明の大飢饉の被害が残る東北地方の惨状を克明に書いています。

 天明の大飢饉は天明2~8年(1782~88)に起きた江戸時代最大規模の飢饉で、特に東北地方で被害が大きく、天明3年(1783)の浅間山噴火も追い打ちをかけたとみられます。『北行日記』によれば、弘前藩はひどい状況で、家々は朽ち果て、田畑は原野に変わり、村々の人口が極端に減少していたといいます。人々は野草やドングリ、家畜などまで食べ、さらに悲惨な状況の地域があったことを書き残しています。

 また、現在の秋田県のある地域については、天明2年、大勢の強盗が侵入、父母が縛り上げられながら、13~15歳の姉弟が強盗のリーダーを殺害して藩主からほめられたという伝聞も記録しています。

「天明の大飢饉」の凄惨な様子を描いた絵図(『天明飢饉之図』より。パブリックドメイン)
「天明の大飢饉」の凄惨な様子を描いた絵図(『天明飢饉之図』より。パブリックドメイン)

蘭学者、儒学者、公家…幅広い人脈

 高山彦九郎は北海道渡航を目指していましたが、津軽まで到達しながら渡海は断念。この後、仙台で林子平と面会し、故郷には戻らず、光孝天皇の新皇居還幸儀式を見るため京に急ぎました。

 江戸では蘭学者・前野良沢らと交流。京では儒学者で印章制度を確立した高芙蓉(こう・ふよう)から多くの知人を紹介され、公家・岩倉具選(ともかず)の屋敷に長く滞在しました。ちなみに具選の孫は岩倉具視の養父です。水戸では立原翠軒、藤田幽谷らと知己を得ました。

祖母を悼み、3年の服喪

 高山彦九郎は18歳の時、書き置きを残して京へ行き、母・しげ病死の翌年、明和3年(1766)には帰郷しますが、その後、江戸に出て、さらに全国各地を歩き、成人した後はほとんど郷里に腰を落ち着けることはありませんでした。

 その例外が祖母りんの死後、3年間喪に服した時期です。りんは祖先・高山氏について教え、彦九郎の思想形成に大きく影響した大事な人だったのです。

 天明6年(1786)8月、りんが亡くなると、彦九郎は墓前に喪屋(小屋)を建て、和歌を詠み、寛政元年(1789)閏6月まで静かに喪に服します。その姿は上野国内外で評判となり、多くの人が彦九郎の喪屋を訪れました。

謎の最期 秘密の倒幕工作に奔走?

 寛政4年(1792)、元日を熊本で迎えた高山彦九郎は九州各地を回ります。林子平の『海国兵談』が絶版、子平が蟄居させられる一方、ロシア船が根室に来航して通商を求めるなど、鎖国政策の揺らぎが見え始めた年です。

 さらに朝廷と幕府の間では、光格天皇が実父である典仁親王に「太上天皇(上皇)」の尊号を贈ろうとしたものの、老中・松平定信によって阻まれるという「尊号一件(そんごういっけん)」の紛糾が起きていました。

 彦九郎はこれに関与して幕府に処罰されます。薩摩藩説得などの秘密工作が密偵によって幕府にばれていたようで、彦九郎の日記にも尾行されていることが書かれています。

「尊号一件」に関与、幕府に追われる

 高山彦九郎は寛政5年(1793)5月、久留米の医師・森嘉膳宅に寄宿。太宰府、博多などを回り、6月19日、久留米に戻ります。27日、森宅で切腹し、翌28日朝、絶命。47歳でした。

 この経緯は森嘉膳が記録を残しています。ふらりと戻ってきた彦九郎は出発前とは違い、憔悴した様子。6月26、27日にはこれまで書いてきた日記、詩歌を破り捨て、自身を「狂気だ」と言います。森たちの説得でいったんは落ち着きますが、一人になった時に切腹しました。

 驚く森に対して、息も絶え絶えに「忠義を尽くしたつもりが、忠義に反することになった」とも語っています。辞世の句も激しいものでした。

「朽ち果てゝ身は土となり墓なくも心は国を守らんものを」

 彦九郎の自刃は尊号一件での幕府への怒り、抗議の意思と解釈され、後に尊皇思想家としての評価を固めることになります。ただ、九州での工作活動で手詰まりになった絶望感や、幕府から追われる身になり、世話になっている人に迷惑をかけられないという思いがあったとも想像できます。あるいは、嫌疑が天皇に近い公家に波及するのを恐れ、逮捕・拷問される前に秘密保持のため自決したとも考えられます。

 なお、同月21日、林子平が56歳で死去しています。

幕末の志士に受け継がれた遺志

 尊号一件に対する幕府への批判で高山彦九郎と意気投合した安芸の神職・唐崎士愛(ことちか)は彦九郎の遺志を継いで同志を糾合しようとして果たせず、寛政8年(1796)11月、自刃します。享和2年(1802)5月には肥前・島原の医師・西道俊が彦九郎の墓前で切腹して後を追いました。

 彦九郎の思想を受け継ぐ人も登場します。水戸藩では彦九郎の遺品を収集する動きや彦九郎の伝記を書く人がいました。吉田松陰は江戸遊学中の嘉永4年(1851)、水戸藩士・会沢正志斎(せいしさい)による『高山彦九郎伝』に触発されます。「松陰」の号は、彦九郎の戒名「松陰以白居士」が由来との説もあります。

 万延元年(1860)~文久2年(1862)、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎といった幕末の志士が墓参のために上野・細谷村を訪れており、西郷隆盛も沖永良部島幽閉中に彦九郎を称える詩文を詠んでいます。

おわりに

 高山彦九郎は「王政復古の先駆者」、「時代を先取りした預言者」ともいえます。戦前、尊皇家としての側面が強調され、小学校の修身教育にも登場。戦後はその反動で否定的に捉えられ、生まれ故郷・群馬県太田市など特定の地域以外では忘れられた存在でした。

 評価は時代によって乱高下していますが、朱子学、陽明学、国学を幅広く学び、身分を超えた幅広い人脈を持ち、20年間の旅日記を残し、時代に対する鋭い問題意識を持っていたことは間違いありません。

【参考文献】
  • 勝又基『孝子を訪ねる旅 江戸期社会を支えた人々』(三弥井書店 2015年)
  • 村上一郎『草莽論 その精神史的自己検証』(筑摩書房 2018年)
  • 石川松太郎ほか編『江戸時代人づくり風土記10 群馬』(農山漁村文化協会 1997年)
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  この記事を書いた人
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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