信長が愛したお鍋の方(興雲院)。夫との二度の死別、本能寺の悲劇を乗り越えた強き側室の足跡

  • 2026/07/16
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 織田信長は正室の濃姫だけでなく、多くの妻妾を抱えていました。今回はその一人であるお鍋の方(なべ。お鍋)を紹介。果たしてどんな女性で、どんな生涯をたどったのでしょうか。

夫を討たれ、信長の元へ

 お鍋は生年不詳、近江国野洲郡北里村(滋賀県近江八幡市)の土豪・高畑源十郎(たかはた げんじゅうろう)の四女として生まれたと言われます。

 ただし彼女にあてた書状に小倉(おぐら。小椋)の苗字が記されており、また彼女の出自について小倉三河守女(みかわのかみ娘)と記した系譜もあるため、定かではありません。

 成長したお鍋ははじめ八尾山城主(滋賀県多賀町)を務める小倉実房(さねふさ)と結婚。小倉甚五郎(じんごろう)・小倉松寿(まつじゅ)を出産しました。小倉実房は南近江の六角義賢(ろっかく よしかた)に仕えていましたが、尾張の織田信長と親交を持っていたようです。

 永禄2年(1559)に信長が上洛した帰途を護衛したほか、永禄13年(1570)の金ヶ崎合戦でも退却する織田軍を支援しました。これが六角の怒りを買い、八尾山城は攻め滅ぼされてしまいます。お鍋は甚五郎と松寿を連れて信長の元へ逃げ込み、庇護を乞いました。

 信長はお鍋母子を岐阜城へ迎え入れ、お鍋を側室とします。信長とすれば実房に対する恩返しはもちろん、手駒を増やす実利も兼ねていたのでしょう。甚五郎と松寿も織田家臣として召し抱えられ、それぞれ所領を与えられたと言います。

本能寺で二度目の死別

 かくして信長の側室となったお鍋は、信長との間に小洞(こぼら。後の織田信高)・酌(しゃく。後の織田信吉)・於振(おふり。水野忠胤→佐治一成室)の二男一女を授かりました。(※ただし小洞については異説あり)

 しかし天正10年(1582)6月2日、信長が明智光秀の謀叛により、京都の本能寺で横死を遂げます(本能寺の変)。

 この時、松寿は信長を護衛して討死を遂げました。『信長公記』によると、湯浅甚助(ゆあさ じんすけ)と共に離れた場所で宿泊していたところ、急報に接して本能寺へ駆けつけたそうです。

……湯浅甚助 小倉松寿 此両人は町之宿にて此由を承敵之中に交入本能寺へ懸込討死……
※『信長公記』巻十五「信長公本能寺にて御腹めされ候事」より

 敵の大軍を恐れることなく命懸けで信長を護ろうとした最期に、お鍋は胸打たれたことでしょう。夫と松寿を喪ったお鍋ですが、悲しんでばかりもいられません。京都への急報を受けたお鍋は、6月6日に崇福寺(岐阜県岐阜市)を信長の位牌所と定めました。

 そして「いかなる者の違乱も許さない」ことを住職に命じています。信長の側室が複数いた中で、位牌の安置≒菩提を弔う行為を周囲に認めさせるだけの地位と実力を持っていたと言えるでしょう。

 ただし書状の「なへ(お鍋)」は当時ありふれた女性名であったため、他の女性(侍女?)だった可能性もゼロではありません。

豊臣政権下で余生を送る

 信長の菩提を弔うために出家、興雲院と号したお鍋は、羽柴秀吉の庇護下に置かれました。そして秀吉の正室・寧々(北政所、高台院)に仕え、孝蔵主(こうぞうす)・東殿(ひがしどの)と共に奥向きを取り仕切ったそうです。

 化粧料として近江国神埼郡高野村(滋賀県東近江市)に500石の所領を賜わり、甚五郎も加賀松任城主(石川県白山市)に任じられました。なお、お鍋が秀吉の側室である松の丸殿(まつのまるどの。京極竜子)に侍女として仕えたとも言われています。

 やがて慶長3年(1598)に秀吉が世を去り、慶長5年(1600)に関ヶ原の合戦が勃発しました。子の織田信吉(酌)が毛利輝元・石田三成率いる西軍に与したことから改易処分(所領全没収)となってしまいます。

 収入源が途絶えて困窮したお鍋に対して、豊臣秀頼から50石、北政所から30石で合計80石が援助されました。500石にはほど遠いものの、何とか食べてはいけるでしょう。

 そして慶長17年(1612)6月25日に世を去りました。墓所は京都・大徳寺塔頭総見院(京都市北区)にあり、今も静かに眠っています。

なぜ「お鍋」?

 ここまでお鍋の方について紹介してきましたが、なぜ当時の女性には鍋という名前がつけられたのでしょうか。その理由に定説はないものの、調理器具である鍋を名前につけることで、一生食事に困らないよう願いが込められたものと考えられます。

 また子供に人間でないモノの名前をつけることで、悪霊に魂を奪い去られない工夫でもありました。当時は乳幼児の死亡率が高かったことから、こうした風習が生まれたのでしょう。

 ちなみにお鍋が生んだ酌(織田信吉)は、信長が命名しました。

……ナベニハ酌子ガソフモノトナリテ酌ト名ツケ玉フ……

【意訳】鍋には酌(おたま)がつきものだから、ということになって、酌と名づけられた。
※『織田家雑録』より

 まったく安直極まるネーミングですが、他の兄弟たちもみんな似たような幼名(奇妙、茶筅、次、大洞、小洞、人など)だったので、信長のセンスが悪かったと諦めるよりありませんね。

おわりに

 今回は信長の側室となったお鍋の方について、その足取りをたどってきました。

 二度にわたって夫を喪い、晩年は息子の連座によって改易となり、生活に困窮するという波乱続きの人生だったようです。果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でお鍋が登場することはあるのでしょうか。そしてもし登場するなら、誰がキャスティングされるのかも注目しています。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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