不潔からの大逆転…世界も驚いた江戸時代のトイレ事情とエコの秘密

  • 2026/07/03
武士が厠で用を足す間、外で家来たちが鼻をつまんで待つ様子(『江戸名所道外尽』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
武士が厠で用を足す間、外で家来たちが鼻をつまんで待つ様子(『江戸名所道外尽』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
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 18世紀初頭、江戸の人口は100万人を突破しました。当時、世界を見渡してもパリやロンドンを凌ぐ大都市です。しかも江戸の凄いところは、これだけの人口を抱えているにもかかわらず、極めて清潔な都市だったことに尽きるでしょう。

 その秘密は、高度に機能していた「循環型社会」にあります。なぜ、それほど見事な循環が可能だったのか。理由は、屎尿(しにょう)やゴミの処理方法に隠されていました。今回は庶民のトイレ事情を中心に、江戸発展の秘密を探っていきます。

トイレの観念が激変した室町時代

 まず前史として、江戸時代以前のトイレ事情を振り返ってみましょう。

 平安時代以降の日本は、現代の基準から見ると衛生観念が明らかに欠落していたと言わざるを得ません。そもそも平安京は生活インフラが未熟だったがゆえに、当初からトイレという概念がなかったようです。貴族は「樋箱」というおまるに用を足し、満杯になれば外へ捨てに行かせたといいます。

 庶民レベルにいたってはさらに深刻で、人々は町の辻や空き地で用を足すしかありませんでした。みんな所構わず排泄するので、そこら中に悪臭が漂ったそうです。

 こうした状況に転機をもたらしたのが、中世の農業技術の革新です。鎌倉時代から室町時代初めにかけて、二毛作の広がりによって農業生産は大きく向上。これに伴い、人間が排出する屎尿が肥料として用いられるようになり、農村を中心に広く活用されました。

 屎尿の再利用は、人々の暮らしの形も変えていきます。家々では別棟を作り、そこで用を足すようになりました。板敷の下には大きな甕(かめ)が仕込んであり、屎尿を貯める仕組みになっていたようです。いわば汲み取り式トイレの原型が生まれたわけですね。

 かつては不潔極まりなかった京都でも、大きな環境の変化が生じました。応仁の乱をはじめとする戦火によって町は荒廃したものの、復興とともに町並みはミニマムとなり、上京と下京を中心とする経済都市へ生まれ変わっていきました。やがて新しい家屋が立ち並ぶようになると、それぞれの家にはトイレが付属するようになります。これも肥料の需要が伸びたことによる影響でしょう。

 また、この時代に手を洗うことが習慣化したことで、日本人の衛生観念は劇的に向上したのです。

清潔さの基本は、水質の管理にあり

 ここからは、江戸時代の将軍のお膝元である江戸のシステムを見ていきましょう。

 もともと江戸は、干潟や湿地を埋め立てて造成した町です。そのため井戸を掘ろうとしても塩水が湧くなど、飲み水に適していません。そこで玉川や井頭池から上水道を引くことで生活用水としました。これが今も残る玉川上水や神田上水です。

 水の流れがあるとはいえ、大事な上水に汚物を流すわけにはいきません。そんな不届き者を取り締まるために、上水の各所には水番所が設置されたといいます。

 一方で人々が暮らすうえで、汚水が生じるのは当然のことでしょう。そこで生活排水や雨水を流すために、町の各所には「どぶ」と呼ばれる溝が掘られました。いわゆる下水道のことですね。複数の下水を集約させてから、江戸湾へ排水する仕組みになっていました。

 当時、上下水道が完璧に備わった都市は江戸以外にありません。幕末期に来日した外国人たちは、上下水道があることに驚き、江戸の清潔さに感心したといいます。

屎尿が重要な資源となった江戸時代

 下水道が完備された江戸では、人々が屎尿をどぶへ流すことは決してありませんでした。なぜなら屎尿が重要な資源だったからです。

 この時代、全国規模で新田開発が盛んとなり、農業用肥料の需要が急速に高まりました。そんな肥料の原料となる屎尿を捨てるはずがなく、下肥屋(しもごえや)という専門業者が、江戸の各所を巡回しながら、定期的に汲み取ったそうです。

 こうした屎尿リサイクルが発展した背景には、江戸をたびたび襲った火事が影響しています。ちょうど明暦の大火(1657年)を境に、極めて簡素に造られた長屋が登場しました。当時は破壊消防が基本だったため、なるべく壊しやすい家屋が求められたのでしょう。

 ただし、あまりに簡素だったことで各戸にはトイレがありません。その代わり、およそ12戸ごとに共用トイレが設置されました。これなら下肥屋も効率よく屎尿を回収でき、臭いが周囲に広がりにくいというメリットもありました。

 一方、上方(京都、およびその周辺)では共用トイレのほか、町の四つ角に「辻便所」が設けられています。これは今でいう公衆トイレのことで、女性も気にすることなく利用していたとか。こちらも肥料の原料として貴重だったようです。

 ちなみに江戸には、諸藩の大名屋敷がたくさんありました。いずれも広大な屋敷地を有しているため、手広く畑地として活用したようです。もちろん野菜に与える肥料は屎尿ですから、とても自前の屋敷から出る量では賄いきれません。わざわざ町へ屎尿を買い付けに行く大名家も多かったそうです。

ゴミの再利用で発展した江戸

 江戸が清潔だった理由は、屎尿のリサイクルだけではありません。人々が出すゴミを再利用することで、さらに相乗効果を生みました。

 実は江戸の町が生まれた当初、深刻なゴミ問題を抱えていました。なぜならゴミの処理方法がなかったことで、人々が勝手に地中へ埋めたり、河川へ投棄したからです。結果、腐敗したゴミによって悪臭が広がり、ネズミや蠅が媒介する疫病がたびたび発生しました。

 「それならゴミを焼けば良いのでは?」となりそうですが、焼却処分は固く禁じられていました。なぜなら飛び火することで、火事や大火へ繋がる恐れがあるからです。

 明暦元年(1655)、こうした事態を受けた幕府は、深川の永代浦ならゴミを捨てても良いと触れを出しました。確かに周辺住民ならありがたい話ですが、さすがに遠くの人がゴミを捨てに行くには無理がありました。

 そこで寛文2年(1662)に発足したのが「浮芥定浚組合」です。この組織が画期的だったのは、一定の場所に集められたゴミを船で回収する点にありました。これなら決まった場所へゴミを出すだけで良く、回収・運搬・処理の流れを効率的に行うことができます。いわば現代のゴミ収集車のような感じでしょうか。

 こうして江戸湾に面した永代浦は、ゴミによって広大な埋立地となり、一般家屋や商家、料理屋などが立ち並ぶようになりました。現在、下町と呼ばれる江東区の深川一帯は、そのようにして生まれた町だったのです。

おわりに

 水洗トイレが完備し、いつでも飲める水が供給され、暮らしやすい住環境が整っているのが現代社会です。また昨今はSDGsが叫ばれ、持続可能な循環型社会へ向けての理念が提唱されています。

 そんな社会の理想に、もっとも早く気付いたのは、江戸時代の人々だったのかも知れません。上下水道の整備や、屎尿の有効活用、さらにゴミ処理を効率的に行うことで、江戸は住環境の整った素晴らしい都市へ発展しました。

 こうした先人たちの知恵と工夫があったからこそ、今の暮らしやすい社会が存在しているのでしょう。

《 筆者厳選の一冊 》
  • 江戸の糞尿学
  • 永井義男/作品社
 本書の中身はいたって真面目なのですが、表紙がどぎついので、手に取るのに躊躇するかも知れません。特に目を引く内容としては、新田開発による農作物増産と、屎尿の需要拡大が見事にリンクしている点でしょう。
本書で「黄金の宝だった」とあるように、再生可能資源としての屎尿が高騰し、あたかもゴールドラッシュのように感じるから不思議です。 エネルギーが不足し、物価高騰にあえぐ現代だからこそ、屎尿の再利用に注目するべきなのでしょう。
【参考文献】
※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
  この記事を書いた人
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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