【入門】5分でわかる徳川家康
- 2019/02/04
織田信長、豊臣秀吉に続いて天下を治めたのが、江戸幕府初代将軍である「徳川家康」です。日本人でその名を知らぬ人はいないでしょう。「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」の言葉がよくその人柄を表しているといわれますが、はたして家康とはどのような人物だったのでしょうか?
今回は家康の人物像が5分でわかるように、幼少期の人質時代から天下を治めるまでの彼の生涯をコンパクトにお伝えしていこうと思います。
今回は家康の人物像が5分でわかるように、幼少期の人質時代から天下を治めるまでの彼の生涯をコンパクトにお伝えしていこうと思います。
【目次】
幼少期は人質としてたらい回しに
織田・今川の人質になる
家康の父親は三河国の豪族である松平氏の八代目当主、松平広忠です。母親は水野忠政の娘である於大の方で、家康は天文11年(1543)に嫡男として誕生しています。しかし、今川氏の庇護にある松平氏に対し、水野氏は隣国・尾張国の織田氏と同盟を結んだため、於大は家康が3歳の頃に離縁されています。物心ついた時には、すでに母親は家康のもとを去っているのです。
さらに天文16年(1547)になると、家康は人質として駿府へ向かうことになりました。まだまだ幼い家康は、父親からも故郷からも離されてしまいます。しかも、駿府に向かう途中で、義母の父親である戸田康光の裏切りによって、織田氏に送られてしまうのです。家康はそのまま尾張国で2年間過ごすことになったため、ここで子供時代の織田信長と知り合ったと伝わっています。
家康の悲劇は終わりません。家康が尾張国にいる間に、父親である広忠が家臣に背かれて殺されてしまいます。今川氏は捕虜としていた織田信広と家康の身柄を交換し、家康はようやく駿府に移ることができました。本拠地の岡崎城は今川氏の城代が入っており、松平氏は実質、今川氏に完全に吸収合併された形でした。
家康は幼少期に離縁で母親を失い、父親も暗殺され、国を奪われ、その身は人質としてたらい回しにされるという、とても過酷な体験をしています。時代が戦国乱世とはいえ、さすがにむごい話です。家康はいったいどのような気持で幼少期を過ごしていたのでしょうか。
元服と初陣、そして転機となった桶狭間合戦
天文24年(1555)、家康は駿府で元服します。幼名は竹千代でしたが、ここで今川義元から一字拝領し、松平次郎三郎元信と名乗っています。後に、祖父の一字を拝領し、元康と改めました。義元は家康の器量を認めていたのでしょう。姪で、関口親永の娘である瀬名(築山殿)を家康に娶らせました。家康は今川氏と親族関係になったのです。こうした方が義元は三河国を治めやすいと考えたのかもしれません。
永禄元年(1558)、家康はついに初陣を飾ります。今川氏を裏切り、織田氏に寝返った鈴木重辰を攻めました。この時の武功を認められ、旧領の300貫文を受け取っています。続いて永禄3年(1560)には主君今川義元が本格的に尾張国に侵攻します。その先鋒を務めたのが家康でした。ここで家康は、織田氏に囲まれた大高城に兵糧を補給する役目を果たし、さらに丸根砦を陥落させる武功をあげました。
義元も家康の活躍ぶりに喜んだことでしょうが、自分自身は油断から信長の奇襲を受け、討ち取られてしまいます。有名な「桶狭間の戦い」です。総大将の死の報告を聞き、自害することも考えた家康でしたが、松平氏の菩提寺である大樹寺の住職に説得され思い留まりました。そして撤退した今川氏に代わって三河国の岡崎城に入城することになるのです。
長きに渡り今川氏の支配を受けてきた三河国の人たちは、家康の岡崎城帰城を心から喜んだことでしょう。家康が幼少期から耐えて成長してきたように、三河国の人たちもまた耐え忍んで生きてきたのです。
今川から独立し、信長と清洲同盟へ
岡崎城の家康は今川からの独立を鮮明にしていきます。永禄4年(1561)4月、今川氏の拠点である牛久保城を攻め、9月には東条城を陥落させるなどして、今川氏に属する三河国の領土を切り取っていきます。義元の跡を継いだのは今川氏真で、武田氏や北条氏との盟約も受け継いでいましたが、上杉謙信の関東出兵の対応のため援軍を受けられなかったようです。その隙を突くような家康の侵攻でした。
永禄5年(1562)には、伯父である水野信元の仲介もあり、尾張国の信長と同盟が成立します。これが「清洲同盟」であり、家康は信長が亡くなる時までこの盟約を守り続けることになるのです。
永禄6年(1563)には義元から拝領した元の字を返上し、正式に家康を名乗るようになりました。同年には西三河で三河一向一揆が勃発。家臣団の多くが一揆方に与するなど窮地に陥り、収束までに半年ほどを要しています。
その後、今川氏と対立を続けながらも、徐々に勢力を拡大し、永禄9年(1566)には三河国統一に成功。家康は朝廷にもしきりに働きかけており、同年には「従五位下三河守」に叙任され、家康個人だけが松平から「徳川」に改姓しています。
松平氏は世良田氏系統の清和源氏を自称していましたが、世良田氏が三河守を任官した前例が無いために、過去の文献を紐解き、世良田氏が藤原姓を名乗ったことがあるという前歴を持ちだしてようやく従五位下三河守に叙任されています。そのため、家康だけが本姓は藤原氏という特殊な状況になったのです。
そしてここから、「徳川家康」の名が全国に知れ渡っていきます。
強敵、甲斐武田氏との戦い
永禄11年(1568)、信長が足利義昭を奉じて上洛することに成功します。この時、家康も信長に援軍を派遣しました。信長は東の守りを家康に託すことができたからこそ、上洛に集中することができたのです。こうして西に向けては信長が勢力を拡大し、東に向けては家康が勢力を拡大するという絶妙なコンビネーションができていきます。ここで今川氏の同盟国である甲斐国の武田信玄が、駿河国の今川領に侵攻し始めました。今川氏に見切りをつけたのです。当初は武田氏と同盟を結び、遠江国へ侵攻していた家康でしたが、永禄12年(1569)になって武田氏から攻撃を受けるようになり、完全な敵対関係となりました。
さらに家康は今川氏の本拠地である掛川城を包囲し、氏真を降伏させて遠江国を支配下に置きました。家康は武田氏に対抗するため、北条氏の当主である北条氏康の協力を得ています。こうして武田氏は一端、軍を退くことになるのです。
しかし、元亀2年(1571)には武田氏と北条氏の同盟が復活。さらに室町幕府将軍である義昭が、打倒信長を呼びかけたために信長包囲網を形成されました。家康にも、信長を裏切ったら副将軍の地位を約束するとの要請がきましたが、家康は不利な状況になっても頑なに信長との同盟を継続しています。
そして元亀3年(1572)、武田氏が本格的に家康の領土へ侵攻を始めました。信長に援軍の要請をしていますが、信長自身も包囲網への対応のため兵を割けなかったようです。そのために遠江国の二俣城は武田氏に落とされています。
ようやく信長の援軍が到着した段階で、家康は武田氏に攻撃を仕掛け、大敗を喫しました。これが、家康が命からがら城に逃げ帰ったという有名な「三方ヶ原の戦い」です。
このまま滅びてもおかしくない状況でしたが、武田氏は当主である信玄の病死によって撤退。ここから家康は反撃に転じ、長篠城を奪還、駿河国にまで侵攻していきました。そして天正3年(1575)には、「長篠の戦い」において信長との連合軍が、武田氏の主力に対して壊滅的な損害を与えることに成功しています。
武田氏に対して優位な状況を築いた家康でしたが、天正7年(1579)、正室である築山殿と嫡男である松平信康に武田氏への内通の疑いが浮上します。信長から信康切腹の通達があり、家康は信長との同盟関係を優先させて正室を殺害、嫡男を切腹させました。
信康は信長の娘を娶っており、義理の息子にあたります。はたして本当に信長が切腹の指示をしたのか、その命令を受けて家康は嫡男切腹を決めたのか、諸説あり、真相はわかっていません。ただし、勇猛であり、将来を期待されていた嫡男を殺すことになってしまったのは間違いないようです。
天正10年(1582)2月には、信長と共同して、武田氏への侵攻を本格化させます。そして3月には武田氏を滅亡させ、その恩賞として信長から駿河国を与えられています。こうして家康は、三河国、遠江国、駿河国を支配することになったのです。
はたして家康はこのような未来を予感していたのでしょうか?信長との同盟を守り通したからこそ、家康はここまで勢力を拡大することができたのです。並みの武将であれば、逆境に屈して信長を裏切っていたはずでしょう。味方を信じる力や、我慢強さにおいて、家康を上回る戦国大名はいないのではないでしょうか。
本能寺の変後、5カ国所領する一大勢力へ
家康の盟友である信長は着実に天下統一に向けて歩んでいましたが、同年の6月、家臣である明智光秀の謀叛により亡くなります。この「本能寺の変」の際、家康もまた信長の招きを受け、上洛していました。堺にいた家康は信長の死を聞いて、自害を考えたといいます。しかし、家臣に諫められ、険しい山道を越えて、三河国に無事に帰還します。信長の仇を討つべく兵を集めている最中に、光秀は中国地方から驚くべき速度で侵攻してきた秀吉に敗北してしまいます。
信長の仇を討てなかった家康でしたが、旧武田氏の領土で一揆が発生し、さらに北条氏が同盟を破って織田側の滝川一益を攻めて敗走させたため、甲斐国へ兵を進めることになりました。世にいう「天正壬午の乱」です。
真田昌幸が家康に寝返り、北条軍を苦しめたことで、北条氏は家康に和睦を求めました。家康の次女は、次期北条氏の当主である北条氏直に嫁ぐこととなり、上野国を北条氏が治め、甲斐国と信濃国を家康が治めることで和睦が成立したのです。
こうして家康は、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国の五カ国を支配する大大名となりました。
秀吉と対立、のちに豊臣政権に臣従
しかし、問題は信長の後継者となった秀吉への対応です。織田家筆頭家老の柴田勝家を滅ぼした秀吉は、そのまま家康とも対立していきます。そして信長の子である織田信雄を掲げ、家康は天正12年(1584)秀吉と対峙し、「小牧・長久手の戦い」で軍事衝突をしました。家康は森長可、池田恒興を破るなどして尾張国方面の戦いを有利に進めましたが、信雄が勝手に秀吉と和議を結んだために、終結しています。家康は二男の於義丸を秀吉の養子としました。人質を差し出したということです。
その後、家康家臣らも秀吉に対して強硬派と融和派に分かれて揉めるようになり、重臣である石川数正が秀吉に寝返るという大事件が起きてしまいます。機密がすべて秀吉に漏れたため家康は軍制を刷新することを余儀なくされ、武田流に変革することになりました。
なんとか家康を臣従させたい秀吉と、それを拒み続ける家康とのせめぎ合いが続きますが、天正14年(1586)、秀吉は実妹の朝日姫を家康の正室とし、さらに生母である大政所まで人質に差し出してきたため、家康もついに折れて、上洛し、臣従することを表明しています。
秀吉ですら家康のプライドを尊重していたということです。それだけの実績と存在感が家康にはあったわけです。
江戸へ移封し、250万石の大大名に
天正15年(1587)、秀吉の推挙もあって、家康は従二位権大納言に叙任されます。さらに秀吉が、関東・奥両国惣無事令を発し、家康が関東や陸奥国、出羽国の監視役となりました。家康は姻戚関係にある関東の北条氏に、上洛して秀吉に恭順することを勧めますが、北条氏はそれを拒否します。そして天正18年(1590)、秀吉の命令によって、ついに小田原征伐が敢行され、北条氏は圧倒的な兵力差に屈し、降伏しました。
ここで秀吉は家康の所領である5カ国を召し上げ、北条氏の旧領である関八州へ移封する命令を下します。家康は故郷である三河国の他、本拠地としていた駿河国などを失うこととなったのです。ただし、以前の150万石から250万石への加増であり、家康の勢力は、相模国、武蔵国、伊豆国、上野国、上総国、下総国、下野国、常陸国にまで及ぶこととなりました。
こうして家康はその本拠地を駿河国の駿府から、武蔵国の江戸に移すことになるわけです。100万石の家康の直轄地には有能な代官を派遣し、関東は大きな発展を遂げていきます。
秀吉は家康を信頼しており、家康もまたその信頼に応えるような働きをしていきます。天正19年(1591)には奥州の一揆を鎮圧するために豊臣秀次が総大将に任じられましたが、家康はそのサポートをしました。
文禄元年(1592)からの朝鮮出兵では名護屋城に布陣。また、文禄4年(1595)に関白である豊臣秀次が謀叛の疑いで自害させられると、事態の沈静化のために上洛して伏見城に長期滞在しています。
そんな家康の貢献に対し、秀吉は慶長元年(1596)、内大臣に推挙しました。家康は「江戸の内府」と呼ばれるようになるのです。家康は秀吉に次ぐ勢力を背景にして、中央政府でもその存在感を高めていきます。
関ケ原の戦いの勝利と江戸幕府の誕生
慶長3年(1598)、秀吉は嫡男である豊臣秀頼の支配を盤石にするため、五大老・五奉行の制度を成立させました。五大老のひとりには、当然のように家康が選ばれています。まもなく秀吉が病没すると、家康ら新しい政治のリーダーたちは朝鮮からの撤退を決めました。まだ秀頼は幼く、秀頼が成人になるまで政治は家康に託すという秀吉の遺言もあり、この隙に家康は天下取りのために着々と地盤を固めていきます。諸国の大名と次々に姻戚関係を結んだのです。伊達政宗、福島正則、蜂須賀至鎮、加藤清正、黒田長政らの面々です。
しかし、大名同士の婚姻は秀吉から固く禁止されていたため、五大老の前田利家や五奉行の石田三成らが反発します。家康は一時的に和睦しますが、武断派の正則や清正らが三成を襲撃する事件が起き、家康はこれを仲裁して三成を逆に蟄居させることに成功しました。
慶長5年(1600)、会津国の上杉氏が軍備を増強し、家康に敵対する構えを見せます。この時、上杉氏当主である上杉景勝の重臣、直江兼続は、家康を断罪する書状「直江状」を家康に送りつけて挑発しました。
家康は朝廷と豊臣氏から、謀叛人である上杉氏を討つという大義名分を得て、大坂城を出陣します。しかし実際の行軍はかなりゆっくりしたもので、家康は何かを待っていたかのようでした。その間に実際に三成が挙兵し、伏見城を陥落させています。
下野国まで行軍していた家康はここで三成の挙兵を知り、三成に反感を持っている正則や清正を先頭にして軍を反転させました。こうして9月、美濃国の関ケ原で三成の西軍と家康の東軍が激突します。有名な天下分け目の合戦である「関ケ原の戦い」です。
結局、西軍は寝返りによって崩れてわずか1日で決着がつき、三成は処刑されました。関ケ原の戦いに勝ったことにより、家康の自領は250万石から400万石まで増えます。代わって豊臣氏の蔵入地を、家康が味方についた大名に分配したため、豊臣氏は65万石となっています。勢力図は完全に逆転したのです。
そして慶長8年(1603)2月、後陽成天皇の勅使が伏見城を訪れ、家康は「征夷大将軍」に任命されます。3月には二条城に移り、こちらで将軍就任の祝賀の儀を行っています。その後、およそ260年もの長きに渡り日本を支配していく「江戸幕府」がここに誕生したのです。慶長10年(1605)には家康は将軍職を辞し、子の徳川秀忠に将軍職を世襲しました。将軍職は徳川氏が世襲するということを明確にしたのです。
豊臣氏を滅ぼす
しかし、老いていく家康に対し、秀頼は成長していきます。秀頼の周囲にも反家康の勢力が集結していました。家康は過去に拠点としていた駿河城に移り住み、幕府の整備や秀頼の対応について進めていきます。これを「大御所政治」と呼びます。実権は将軍である秀忠ではなく、家康が持ち続けたのです。慶長16年(1611)、家康は秀頼を上洛させることに成功しています。これはかつて家康が秀吉に臣従を誓うために上洛したのとほぼ同じ状況です。天下に徳川公儀が豊臣氏よりも力があり、優位であることを示したのです。もはや豊臣氏は一大名に過ぎませんでした。
家康は豊臣氏との共存の道も模索していたようで、孫である千姫を秀頼の正室にしています。しかし、理想通りにはいかないものがありました。幕府自体がまだ盤石なものではなく、それを揺るがす最も脅威な存在が豊臣氏だったのです。やはり豊臣氏を除かねば自分の死後の秩序は保てないと家康は考えたのではないでしょうか。
豊臣氏側でも家康との決戦に備えて浪人を集め、兵力を増強していました。この事態を家康としても大いに警戒し、対処せざるを得なくなるのですが、豊臣氏を滅ぼす大義名分がありません。そこで起こったのが、慶長19年(1614)の「方広寺鐘銘事件」です。
家康は豊臣氏に方広寺の再建を提案したのですが、その梵鐘の銘文に「国家安康」、「君臣豊楽」とあったことに異議を唱えたのです。家康の名を分断するという不敬、豊臣氏を君とする野心があることを指摘します。これについては家康側の難癖だという説もあれば、豊臣氏側の不手際だったという説もあります。
どちらにせよ、家康には、豊臣氏から力を削ぐ絶好の機会に映ったことでしょう。豊臣氏は家老である片桐且元を駿府に送り弁明しようとしますが、家康は会見しませんでした。そして秀頼の大坂城退去を命じたのです。
豊臣氏も居城を放棄することを拒否し、ついに家康は挙兵することを決断します。11月には二条城を出陣し、大坂城を包囲しました。家康に従った兵の数はなんと20万人でした。豊臣氏側は籠城して対峙しますが、城内に砲撃を受けたことによって淀殿が和睦を決断。家康は二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めることを条件に、これに応じました。有名な「大坂冬の陣」です。
しかし、家康は外堀だけではなく内堀も埋めるという強行手段に出ます。これによって、大坂城は本丸だけが残る無防備な状態になってしまったのです。もはや籠城して耐えきるだけの防御機能はありませんでした。
慶長20年(1615)、豊臣氏が内堀を掘り返すと、家康は戦準備をしていると指摘し、豊臣氏の移封を要求します。豊臣氏がこれを拒否すると、再び家康は大坂城に侵攻しました。「大坂夏の陣」です。
一時は豊臣軍の真田信繁の果敢な突撃で、家康も死を覚悟するような事態に陥りましたが、圧倒的な兵力の差で押し返し、5月には大坂城は陥落。秀頼も淀殿も自害したことにより、豊臣氏はここで滅亡するのです。
徳川幕府の支配をより盤石に
こうして完全に天下統一を果たした家康は、同年7月に「禁中並公家諸法度」を制定、さらに「武家諸法度」も制定しました。朝廷と幕府の関係、幕府と諸大名の関係がきっちりと構築されたのです。ここに至って江戸幕府による支配は盤石なものとなりました。もはや家康には不安の種はなかったことでしょう。元和2年(1616)には家康は武家出身者としては史上四人目となる「太政大臣」に任ぜられています。そして同年4月、満73歳で家康は往生しました。
遺体は駿府の久能山に葬られ、一周忌を経て日光の東照社に分霊されています。そして元和3年(1617)2月に「東照大権現」の神号が贈られました。現在でも家康は神として崇められているのです。
おわりに
天下を完全に統一し、日本全土に平和をもたらした家康の偉業はまさに人間離れしています。幼少期から過酷な生活を経験し、そして天下統一を目指す信長や秀吉といった英雄との出会いと深い関わり合いが、このような家康像を作り上げたのかもしれません。戦場でも大いに活躍し、統治でも政治でも抜群の成果をあげた家康。その最も優れていた点は、並々ならぬ芯の強さ、我慢強さだったのではないでしょうか。だからこそ260年以上も続く江戸幕府の礎を築くことができたのだと思います。そしてこの我慢強さ、辛抱強さは日本人のアイデンティティになって受け継がれていきました。日本の戦国時代はこうして終結していったのです。
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