【風、薫る連載】第4回:絶対に負けられない伝染病との戦い トレインド・ナースの真価が発揮される
- 2026/06/19
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不屈のトレインド・ナース、新天地・新潟高田へ赴く
明治23年(1890)の晩秋。和を乗せた汽車は、信濃と越後の国境に聳える山脈を越えて高田平野に入った。うっすらと積もった雪が田畑を白く染めている。寒々しい眺めが、痛手を負った心をさらに鞭打つ……。同年11月、和は看護婦取締役を解任されて病院を退職した。融通のきかない正義感でプライドの高い医師たちと衝突することも多く、和の解任を求める声が湧き起こり、病院上層部は騒ぎを収束させるために、彼女を切ることにしたのだった。
それを聞きつけた桜井女学校の恩師マリア・トゥルーが、和に新しい仕事を紹介してくれたのだが。その仕事場というのが、東京から遠く離れた新潟県の高田。この町にある高田女学校で、生徒取締役として働くことになったのである。
西南戦争後は女学校の創設がブームになる。明治22年までの10年間に全国で30校以上が新設された。なかでも女子教育に熱心なキリスト教系の女学校は多く、高田にも明治21年(1888)4月に、桜井女学校の系列校として高田女学校が開校した。マリアも桜井女学校から教師を派遣するなどして支援したが、いまだ必要な人員が揃わずに苦労している。そこで和に白羽の矢が立てられたというわけだ。
創立時の高田女学校は旧高田藩士・村上将監の屋敷(現在の上越教育大学学校教育実践研究センターの付近)に間借りしていたが、その後すぐに五ノ辻町(現在の西城町4丁目)に校舎や寄宿舎が建てられた。和が赴任したのはそれが完成したばかりの頃。この地方の学校で唯一のオルガンを設置した音楽室など、充実した設備を揃えていたという。
単身赴任だった和は、生徒たちと同じ寄宿舎に住んだ。生徒取締にくわえて寄宿舎の舎監も兼務することになったが、どちらも何か問題でも起きない限り、普段はさほどやる事がない。これでは暇を持て余してしまう。
しかし、和はじっとしていられる性分ではなく、空いた時間を使ってキリスト教伝導や社会運動にも精をだすようになる。それがマリアの狙いだったのかもしれない。
裏表がなく純粋な彼女のキャラクターは、人を惹きつける魅力がある。北陸の地で神の教えを広めるにも最適な人材だった。
大勢の聴衆を前に、自作自演の歌を弾き語り
和は東京でもキリスト教婦人矯風会に所属して活動した経験があった。明治19年(1886)に設立された万国婦人禁酒同盟日本支部はやがて、世の間違ったものはすべて正そうという運動に発展。名称をキリスト教婦人矯風会に改めて、売春の根絶にはとくに熱心に取り組んでいた。
明治24年(1891)3月19日に、高田でもキリスト教徒の青年たちが廃娼を訴える演説会を催して、この地でも廃娼運動が盛りあがりを見せるようになる。この2ヶ月ほど前には、廃業しようとした娼婦を廓の経営者が前借金を理由に妨害し、それに端を発した騒動が起きていた。この騒動で一般市民も関心を持つようになって、当日の会場には200人を超える人々が集まってきた。
この町で開かれる催しとしては空前の盛況。和は学校からオルガンを持ち込んで伴奏しながら、自作の「廃娼唱歌」を大きな声を張りあげて歌った。度胸がいい。また、なかなかの美声だった。ハイカラで珍しいオルガンの音色とともに、人々は彼女の歌声に聞き入ったという。
しかし、和が本当にやりたいのは看護の仕事。廃娼運動に熱を入れることで気を紛らわそうとするが、満たされない思いは募り、やり場のない焦りに苛まれつづけていた。
そんなとある日に「大関さん!」と、すれ違った人力車の乗客に呼びとめられる。振り返れば、そこに見覚えのある顔が……帝国大学医科大学附属第一病院に外科医師として勤務していた瀬尾原始の姿がある。彼はいつも腰が低くて優しく、医師たちのなかで和が好印象を抱いた数少ない人物だった。
瀬尾はこの高田の出身で、実家は開業医をしている。いまは資産家などの出資により設備が整った大規模な総合病院にリニューアル工事の最中。「知命堂病院」と命名され、完成すればこの地方の医療の拠点として機能するようになるという。
和の近況を聞いた瀬尾は、すぐに看護婦への復帰を誘ってきた。彼はトレインド・ナースの養成事業継続を進言するなど、その必要性を早くから理解していた。それだけに得難い人材である。知命堂病院は580坪の敷地に内科、外科、産婦人科、眼科の4科からなる大規模なものだが、和は看護長への就任を要請され、院内の全看護婦を指導・管理することになる。
患者の生存率を格段に向上させた赤痢との戦い
明治時代中期になると、毎年夏に日本各地で赤痢が流行するようになった。地域医療の拠点である知命堂病院は、伝染病対策でも大きな役割を担っている。患者が発生すれば医療スタッフを派遣して、治療や感染防止の措置をおこなわねばならない。ナイチンゲールは、伝染病が蔓延していたクリミア戦争の野戦病院での経験から、看護婦教育でも感染予防や伝染病患者の看護法などを重視していた。ナイチンゲール方式で学んだ和もまた、それについては十分な知識を持っている。看護婦に復帰して間もなく、赤痢患者が発生した村から救援要請が届くと瀬尾院長に直訴し、志願者の看護婦数名を引き連れて赤痢が発生した集落に向かった。
当時はどこの町や村でも伝染病が発生すれば「避病院」と呼ばれる隔離病棟に患者を収容していた。集落から離れた山中にあり、病院というよりは粗末な掘立て小屋。治療設備はなく普通は医師や看護婦も常駐せず、治療よりも隔離が目的の施設だった。
収容された患者たちは放置されたまま、食事も満足に与えられずに衰弱して死ぬことになる。人々は避病院ではなく〝死病院〟と言って恐れていた。避病院に送られるのを避けるために、感染を隠して患者を看病する家も多く、それが感染をさらに拡大させる。
避病院の環境を改善して適切な治療を行い、収容者の生存率を高めること。感染病の流行を食い止めるには、和はそれがいちばん有効な手段と考えた。病室を隅々まで消毒し、換気も充分に行うなどして清潔を徹底させる。また、簡素な炊事場も作り、温かく滋養のある食事を提供した。
これによって患者の死亡率は格段に下がった。ちなみに、ナイチンゲールがクリミアの野戦病院においてこれと同様の措置を実行した結果、伝染病の蔓延で43%にまで上昇していた死亡率を2%にまで下げる劇的な効果が確認されている。和の避病院改革にもそれに近い効果はあったといわれる。
親友・鈴木雅と合流して、物語は大きく動きだす……
明治27年(1894)4月には知命堂病院内に附属産婆看護養成所が設立された。新潟県初となる看護婦養成所であり、和は病院の看護長と兼任して講師となり実地指導を担当することになった。もともとトレインド・ナースの養成を目的に創設されたものだが、急遽、伝染病対策のための速成看護婦養成のコースも新設された。県下の各郡から2名ずつ受講生として送るように依頼し、4ヶ月間の修業年限で救急療法や消毒法など、伝染病患者に対する看護の方法を教え込むことになった。「速成」の言葉が示す通り、短期間で必須の最低限必要な知識を身に付けさせようというもの。伝染病の流行に備えて、とにかく急いで看護婦の頭数を揃えようという緊急措置が必要だった。
速成看護婦養成の講座の時間割は、朝から日が暮れるまでびっしり授業で埋め尽くされている。その大半を和が担当して教えた。カリキュラムを終えて卒業生を送りだした時には、ハードワークでヘトヘトに疲れ果ててしまったが、達成感に心は満たされていた。
高田での使命を全うすることができた。これで心置きなく東京に帰ることがきる、と。
東京では、親友の鈴木雅が東京看護婦会を創設して、看護婦の派遣事業を始めていた。しかし、会に登録している看護婦だけではとても派遣依頼に応じきれない。また、採用した看護婦たちもスキルの差が大きく、再教育が必要な者も多い。そこで雅は東京看護婦会に付属養成所を設置することにした。そして、
「あなたには、その講師をやっていただきたいのです」
と、和に言ってきた。
世間にトレインド・ナースを認知させ、日本の医療や看護の質を向上させる。親友と二人三脚でこの夢を達成するために、和は帰京して早々、一息つく暇もなく忙しく働き始めた。
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