信長に追放された佐久間信栄、 茶の湯を武器に生き残ったその後の生涯
- 2026/08/26
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天正8年(1580)8月、長年にわたって織田信長の覇業を支え続けた重臣の佐久間信盛・佐久間信栄(さくま のぶひで)父子が追放されてしまいました。
父の信盛は失意のうちに世を去りますが、息子の信栄はその後どうなったのでしょうか。今回はこちらの佐久間信栄について、その生涯をたどってみたいと思います。
父の信盛は失意のうちに世を去りますが、息子の信栄はその後どうなったのでしょうか。今回はこちらの佐久間信栄について、その生涯をたどってみたいと思います。
若いころから武功を重ねるが……
佐久間信栄は弘治2年(1556)、佐久間信盛の嫡男として誕生しました。生母は不詳、弟妹には佐久間兵衛介(ひょうゑのすけ)・佐久間信実(のぶざね)・女子(安見右近大夫室)・女子(福島正則側室)・女子(佐々氏室)らがいます。元服して通称を甚九郎(じんくろう)と名乗り、一時は佐久間正勝(まさかつ)と名乗ったこともあったようです。また駿河守(するがのかみ)の官途名(官職の私称)を許されていました。
若いころから父と共に各地を転戦し、それぞれに武功を立てています。
一、伊勢国大河内城攻め(おかわちじょう。三重県松阪市)
永禄12年(1569)8月、北畠具教(きたばたけ とものり)ら8千が立て籠もる大河内城へ、信長率いる7万の軍勢で攻め込みました。一、摂津野田・福島の合戦(大阪市福島区)
元亀元年(1570)8月、野田城と福島城へ攻め込み、三好三人衆や石山本願寺らと戦います。これが10年間にわたる石山合戦の端緒となりました。一、摂津天王寺の合戦(大阪市中央区)
天正4年(1576)5月に本願寺勢の鈴木重秀(すずき しげひで)ら1万5千と戦い、これを制しました。この時に総大将であった塙直政(ばん なおまさ)が討死すると、父の信盛が本願寺攻めの総大将となり、信栄はこれを補佐します。その後も本願寺攻めに尽力した佐久間父子ですが、一向に戦果が上がらなかったことから、堪忍袋の緒が切れた信長によって追放されてしまったのでした。
筆にも墨にも述べがたき……甚九郎覚悟の条々
信長は佐久間信盛・信栄父子を追放するに際して、19ヶ条にも及ぶ折檻状(糾弾状)を送りつけています。そこには信栄についても言及されていました。2ヶ条あったので、読んでみましょう。一、甚九郎覚悟の条々、書き並べ候へば、筆にも墨にも述べがたき事。
【意訳】その12。甚九郎(信栄)の覚悟なき振る舞いの数々は数え切れない。これを書き連ねようと思ったら、筆は折れて墨も乾き切ってしまう(=とても書き尽くせない)。
いったい何をどれほどやらかしたら、そこまで非行を重ねられるのでしょうか。
一、右衛門与力・被官等に至るまで、斟酌候の事、たゞ別条にてこれなし。其の身、分別に自慢し、うつくしげなるふりをして、綿の中にしまはりをたてたる上を、さぐる様なるこはき扱ひに付いて、かくの如き事。
【意訳】その15。信盛(右衛門)の与力や家臣はみんな信栄に遠慮して、はれもの扱いするばかり。それと言うのも思慮分別に富んだフリをしながら、真綿に針を忍ばせるような陰険さが原因である。これまでどういう教育をしてきたのか、まったく親の顔が見てみたいものだ。
上記意訳の最後の一文は流石にジョークですが、まるで信長自身が佐久間家中を見て来たかのような言いぶりですね。
なかなか覇業がままならず、苛立っていた信長の八つ当たりもあったのでしょうが、信盛・信栄父子が茶の湯三昧の日々を送っていたのは確かだそうです。
信長から「どこかの敵を滅ぼすなり討死するなり、あるいは頭を丸めて出家しろ」と最終通告を突きつけられた信盛・信栄父子は高野山に上り、一説にはさらに熊野まで落ちていったとも言われます。
父の死後に織田家へ復帰
かくして不遇の日々を送っていた信栄は、天正10年(1582)1月16日に父の信盛が亡くなると、程なくして赦免されました。信長の嫡男である織田信忠(のぶただ)に仕え、同年6月2日に本能寺の変が起こり、信忠が自害した後はその弟である織田信雄(のぶかつ/のぶお)に仕えます。
信雄から蟹江城(かにえじょう。愛知県蟹江町)を任された信栄は、天正11年(1583)4月の賤ヶ岳合戦後は伊勢峯城(みねじょう。三重県亀山市)も任されました。
翌天正12年(1584)の小牧・長久手合戦では羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立し、伊賀・伊勢戦線で奮闘したと言います。しかし蟹江城の守備を任せた前田種定(まえだ たねさだ)が秀吉と内通し、共に蟹江城を守備していた佐久間信辰(のぶとき。信栄叔父)を退去させてしまいました。
まもなく蟹江城は信雄とその後ろ盾となっていた徳川家康らによって奪回されますが、これが信栄にとって最後の従軍経験となったそうです。その後は出家して不干斎(ふかんさい)と号して三河国笹原(愛知県豊明市)で隠居しました。
茶人として余生を送る
このまま歴史の表舞台から姿を消したかと思いきや、天正18年(1590)に信雄が秀吉の怒りを買って改易されると、茶の湯を嗜んでいたことから茶人として秀吉に召し抱えられます。かつて茶の湯三昧で追放された信栄ですが、まさに「身を食う芸が身を助ける」と言ったところでしょうか。豊臣政権下では朝鮮出兵時(文禄の役・慶長の役)に鉄砲の製造を担当するなどの記録が残っており、大坂の陣で慶長20年(1615)に豊臣政権が滅亡した後には、徳川秀忠(家康嫡男・江戸幕府2代将軍)の御伽衆として仕えています。武蔵国の児玉郡と横見郡に3千石の所領を与えられ、寛永8年(1632)11月23日に江戸で世を去りました。享年77歳。
信栄には二男七女がいたものの、息子は二人とも先だってしまいました。そこで弟の佐久間信実と、同族の佐久間信勝(のぶかつ)・佐久間信重(のぶしげ)を養子に迎えています。信勝の血筋は断絶したものの、信実と信重の子孫は江戸幕府の旗本として存続したのでした。
終わりに
今回は信長に追放されてしまった佐久間信栄について、その生涯をたどってきました。信長がボロッカスにこき下ろしたその行状は、果たしてどんなものだったのでしょうか。さすがに今から大河ドラマ『豊臣兄弟!』に登場することはないと思いますが、もしかしたら並みいる武将たちの中にいるのかもしれませんね。
他にも個性的な戦国武将たちを紹介したいと思うので、その時はまたお付き合いいただければ幸いです。





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