美人画と言えばこの人! 蔦重が見出した才能「喜多川歌麿」

 版元蔦屋重三郎の最大の功績は、プロデューサーとして多くの異才を発掘し世に送り出したことです。中でも喜多川歌麿は、重三郎と出会っていなければ成功を収められたかどうかもわからない境遇でした。

歌麿世に出る

 歌麿は生年も生国もはっきりせず、没年から逆算しておそらく宝暦3年(1753)の生まれ、生国は川越や江戸・大坂・京都・近江などが候補に挙がっています。

 彼の最初期の作品は、現在発見されているものでは『ちよのはる』という絵入りの俳諧誌に描かれた茄子のイラストです。「少年 石要画」の署名が入っており、17歳のころの作品と思われます。その後、歌麿は「北川豊章」を名乗り、妖怪画で知られる鳥山石燕の元で絵を学んでいましたが、22歳のころに両国の版元から出版された浄瑠璃富本節の稽古本に役者絵を描いています。

 そんな歌麿が世に出るきっかけとなったのが、天明8年(1788)に重三郎を版元にして出した『画本虫選』という狂歌本です。これは当時流行っていた狂歌に草花や虫・鳥の絵を添えたもので、鮮やかな多色刷りの絵本です。これは歌麿が他の絵師と比べても抜きん出ていた精緻な写実力と、即興で描いて見せる力を遺憾なく発揮した出来栄えでした。

『画本虫選』(国文学研究資料館所蔵、出典:国書データベース)
『画本虫選』(国文学研究資料館所蔵、出典:国書データベース)

「お前さんにはあぶな画と美人画が向いている」

 重三郎は歌麿の「物事の細部を観察し、正確に素早く書き上げる技術」を見抜き、その将来に大きな期待を寄せます。であればこそ有名な狂歌師たちの歌にぽっと出の新人の挿絵を使いました。重三郎は歌麿を料理屋や吉原の妓楼で開かれる著名な狂歌師たちの歌会に連れて行き、その場で即興で挿絵を描かせる催しを企画します。

 狂歌師たちには歌麿の才能を認知させ、歌麿にはこのような場の遣り取りや雰囲気を味わわせ、自身はその場で出来た狂歌や絵を基にした本を作り、出版します。その場で消えてしまう遊びを金に換え、それを作り手に還元する、プロデューサーとしての重三郎の腕の見せ処です。

 しかし重三郎が歌麿に本当に描かせたかったのは別の絵でした。

「皆さんが喜びそうなものを描いてみないかい?」

 そう誘いかけて描かせたのが春画の中でも傑作として名高い天明8年(1788)出版の『歌まくら』です。不思議な事に歌麿が重三郎を版元とした描いた春画はこの1作だけです。

『歌まくら』(部分)(出典:wikipedia)
『歌まくら』(部分)(出典:wikipedia)

歌麿の本領発揮、美人大首絵

 歌麿が本領を発揮するのは天明から寛政に変わったころですが、世の中も変わろうとしていました。老中首座についていた松平定信が寛政の改革に着手し出版統制が始まります。山東京伝の洒落本が発禁処分を受け、本人は手鎖50日の処分、重三郎も財産の半分を没収されてしまいました。重三郎は春画集『歌まくら』の好評を受けて第二弾を狙っていたのに、それも手を出しにくくなります。

 自分を世に出してくれた重三郎の苦境を見て歌麿が思いついたのが、美人画と役者絵を合体させたような「美人大首絵」です。寛政年間に始まった『婦女人相十品』や『婦人相学十躰』などのシリーズですが、上半身を大きく描くのは役者絵に使われる手法でした。これを美人画に取り入れることで女性の細やかな表情を描けるようになり、それまでの美人画と異なり、モデルの内面・心情まで表現できるようになります。

 今日私たちが歌麿の絵と聞いて思い浮かべるのはこの「美人大首絵」が多いでしょう。

『婦人相學十躰・浮気之相』(出典:ColBase)
『婦人相學十躰・浮気之相』(出典:ColBase)
『婦女人相十品・ポッピンを吹く娘』(出典:ColBase)
『婦女人相十品・ポッピンを吹く娘』(出典:ColBase)

幕府との丁々発止

 しかし普通の美人画ではなかなか次々に売れるとは行きません。そこで重三郎が考えたのが、この美人画のモデルに人気遊女や茶屋娘を撰び、彼女たちの名前入りで売り出します。折からの茶屋娘ブームで彼女たちは逢いに行けるアイドル状態。この企画は売れに売れ、絵を片手に茶店へ押しかける男たちが行列を作るほどでした。

 こうなると公序良俗を守らせたい幕府が黙っておらず、美人画の名前入れ禁止を言い出します。

 重三郎たちも知恵を絞り、直接名前を書かずに判じ絵でそれと想像できるような仕掛けを施します。絵の上部に小窓を作り、その中に二把の菜っ葉と矢、海の沖合の風景と田圃を描いて「菜が二把と矢でなにわや、沖の風景と田圃でおきた、難波屋おきたの事を言ってるんだな、洒落てるじゃねぇか」と客にクイズ感覚の面白さを提供しました。

 多色摺りが贅沢と言われれば、単色でも豪華に見えるようにキラキラ雲母の粉を混ぜた“雲母摺(きらずり)”で対抗します。幕府の鼻を明かすような重三郎と歌麿に、江戸っ子はやんやの喝采を浴びせました。

おわりに

 寛政9年(1797)に重三郎が亡くなり、この名コンビも消滅しますが、その後も歌麿は春画や艶本に筆を振るいました。享和年間に発行した『艶本床の梅』『帆柱丸』『艶本葉男婦舞喜(えほんはなふぶき)』などは、歌麿円熟期の技巧が詰まった素晴らしいものです。

 しかしその人気に驕り、押さえる者もいない彼はしだいに傲慢になって行きました。心に油断が生じたのでしょうか、文化元年(1804)には太閤秀吉の醍醐の花見になぞらえた絵が将軍家斉を揶揄している、との疑いを持たれ、50日手鎖り、捕縛・入牢の沙汰となります。

 これが心身に影響を与えたのか、それから2年後の文化3年(1806)に亡くなりました。版元たちから依頼された多くの下絵に埋もれて事切れていたそうです。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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