「滝川一益」仕事は完璧、でも運はゼロ。関東の覇者から転落した名将のあまりに切ない幕引き
- 2026/02/27
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織田信長の家臣として上記のように称えられた滝川一益(たきがわ・かずます)。家臣団の中でも、軍事・政治の両面で特に重要視されていた武将の一人でした。まさに信長の「右腕」と呼ぶにふさわしい、キレッキレの仕事人だった彼ですが、人生の後半戦は、どうやら猛烈に「ツイていなかった」ようです。
今回は、織田家屈指のエリート街道から一転、運命に翻弄されてしまった滝川一益の生涯を追いかけてみましょう。
やんちゃな若者、信長に仕官する
滝川一益の出自は、実はハッキリとは分かっていません。有力な出身地とされているのは、近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)。そう、あの「甲賀忍者」で有名な土地柄です。その背景から「一益は忍者だったのではないか?」とする説もありますが、明確な根拠はありません。「甲賀出身なら忍者だろう」という、まさかの短絡的な発想。でも……、そういう設定、嫌いじゃない。一益の出身地については、他にも伊勢国や志摩国(現在の三重県)が挙げられることがあります。これらの根拠としては、後に信長から恩賞として北伊勢に広大な所領を与えられたことや、志摩出身の海の男・九鬼嘉隆(くき・よしたか)が信長に仕官する際、一益が仲介役を果たしたことなどが考えられています。要するに「その土地に詳しいから、任されたんだろう」という推測ですね。
それはさておき、なぜ出自のよくわからない一益が、あの厳しい信長に仕えることになったのでしょうか。江戸時代の系図集『寛永諸家系図伝』によると、一益は幼い頃から鉄砲の腕前が非常に長けていたのだとか。ところが、若気の至りか、同族の者を殺害するという事件を起こして国を去ることに…。その後、諸国を放浪した末、信長に仕えることになったといいます。
若い頃の一益は博打好きだったとも言われていますから、随分と「やんちゃ」な若者だったのでしょうか。人を殺めているので、これが適語かどうかはわかりませんけど……。
また、一益が信長に仕官した時期も正確には分かっていません。そこで手掛かりになるのが、信長の伝記『信長公記』です。年次不明ながら、清須城時代の盆踊りのくだりに、“一益”という名前が初めて登場します。他の登場人物が信長初期の家臣ばかりであることを考えると、仕官したのは1555~58年頃、信長がまだ尾張統一の戦いで苦戦していた時期だと推測できます。
伊勢攻略で活躍
その後、信長は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、尾張統一を成し遂げました。続いて行われたのが美濃(岐阜県)攻略ですが、意外にもこちらに一益が参加した形跡は見られません。一方で、一益が心血を注いでいたのが「伊勢侵攻」です。実は、信長に伊勢攻めを進言したのは一益本人だった、という説もあります。
- 本願寺勢力の抑制
- 近江六角氏への牽制
- 伊勢湾貿易の確保
これらを見抜いて提案したのだとしたら、一益は単なる武闘派ではなく、相当な戦略家だったことになりますね。
永禄10年(1567)の春、北伊勢攻略が始まると、一益は先鋒として派遣されます。当時の北伊勢は、神戸(かんべ)氏・長野工藤氏・関氏といった有力国衆と、多くの地侍たちが入り乱れる“割拠状態”。一益はここで持ち前の交渉力と武力を発揮し、員弁(いなべ)郡や桑名郡の地侍を次々と服属させていきました。
そして翌年からは、さらに巧妙な攻略を進めていきます。
信長は三男の三七郎(のちの織田信孝)を神戸氏に養子として送り込み、さらに弟の信良(のちの織田信包/のぶかね)を長野工藤氏の当主にするなど、強引に織田の血筋をねじ込んでいきます。この背景には、現地に留まって地道に内部工作を続けていた一益の尽力がありました。
なお、この年の信長は足利義昭を奉じて京都へ向かう「上洛戦」という大イベントを行っています。多くの主力家臣が華々しく上洛に従軍する中、一益はあえて「北伊勢の抑え」として残されました。派手な京都入りよりも、実利をとるための留守番を任された…これこそ、信長が一益の実務能力を誰よりも高く評価していた証拠と言えるのではないでしょうか。
当時の伊勢国で最大の勢力といえば、伊勢国司として知られる北畠氏でした。実権を握っていたのは剣豪としても名高い北畠具教(とものり)。しかし、彼の弟である木造(こづくり)城主の木造具政が永禄12年(1569)に誼(よしみ)を通じてきたのです。
南伊勢の制圧をうかがっていた織田方に脅威を感じたのでしょう。これを機に一益ら織田軍の大軍は大河内(おかわち)城攻めを開始。激戦の末、和睦によって開城されることになりました。とはいえ、その和睦条件は……
- 信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を北畠の養子にすること
- 本拠地の大河内城を茶筅丸に明け渡すこと
という、事実上の乗っ取り。北畠氏がこれを飲んだことで、信長は伊勢平定を成し遂げました。一益はその功績から伊勢国に留まり、安濃津(あのつ)・渋見・木造の3つの城の守備を任されることになります。
一向一揆を平定し、長島城主に
しかし、平穏な時間は長く続きません。将軍義昭と信長が仲違いしたことで、周囲は敵だらけに。伊勢を拠点としていた一益の前に立ちはだかったのが、泣く子も黙る「長島の一向一揆(1570~74年)」でした。伊勢長島には石山本願寺(浄土真宗の本山)の末寺・願証寺があり、一向宗の一大拠点となっていたのです。
天正2年(1574)に行われた殲滅戦では、一益は九鬼嘉隆らと共に水軍を率いて出陣。木曽川・長良川・揖斐川に囲まれた要塞のような長島城を、水上から完全に封鎖しました。
この戦いの幕引きは、戦国史の中でもかなりショッキングなものです。兵糧攻めに耐えきれず降伏してきた千人もの人々を、織田軍は男女問わず斬り捨て、さらに最後まで抵抗した門徒2万人を柵に閉じ込めて焼き殺したと言われています。……まかり間違っても、当時の信長軍とは敵対したくないものです。
この凄惨な戦いを勝ち抜いた功績により、一益は北伊勢の大半を与えられ、長島城主となりました。
各地を転戦、そして関東方面軍の司令官へ
伊勢長島を平定してからの数年間、一益のスケジュールは過密を極めます。- 天正3年(1575)5月、長篠の戦い
- 同年8月、越前一向一揆
- 天正4年(1576)5月、天王寺の戦い
- 天正5年(1577)、紀州征伐
- 天正6年(1578)、第二次木津川口の戦い
- 天正6~7年(1578~79)、有岡城の戦い
- 天正9年(1581)、第二次天正伊賀の乱
まさに「困ったときの一益」。織田家の所領が広がるたびに、あちこちの戦線へ駆り出される“スーパー遊撃軍”として重宝されました。
そして天正10年(1582)、ついに宿敵・武田氏を滅ぼす「甲州征伐」が始まります。
総大将は信長の嫡男・信忠。一益はそのサポート役(軍監)として信濃へ侵攻します。天目山の戦いでは武田勝頼を追い詰め、織田家中でも「一番の手柄」と称えられるほどの大活躍を見せました。
戦後、信長は一益に上野(群馬県)一国と信濃国の一部(小県郡・佐久郡)を与えます。それだけでなく、一益を「関東方面軍の司令官」に任命。当時の呼び名で「関東管領」に相当する役職を与えられたとされています。
「関東管領」といえば、かつては室町幕府の地方機関「鎌倉府」の長官である鎌倉公方を補佐する役職のことですが、果たして一益の就いた役職が、これと同等であったかは定かではありません。
関東方面軍の司令官とはいっても、一益の任務は合戦で勢力を拡大することではありません。関東一円に勢力を有していた北条氏は、すでに信長に恭順の意を示していました。そのため、外交によって北条氏をはじめとする関東の諸大名を、正式に服属させること。さらには伊達氏や蘆名氏といった東北の諸大名を従属させることだったと言えます。
こうして、織田家臣の中でも極めて広大なエリアを任された一益。信長からの信頼は、まさに絶頂に達していたと言えるでしょう。
転げ落ちた晩年
関東から逃亡
ここまでは順風満帆。まさに「戦国時代の勝ち組」を地で行くキャリアです。ところが、同年6月に起こった「本能寺の変」によって、一益の運命の歯車は一気に狂い出します。信長の訃報が届くと、統治が始まったばかりの旧武田領は大混乱。周辺大名や国衆らによる“争奪戦”が勃発(天正壬午の乱)。このチャンスを逃すまいと、同盟関係にあったはずの北条氏が、手の平を返すように一益の領土である上野国へと侵攻。一益はこれを現在の埼玉県・神流川(かんながわ)で迎え撃ちます(神流川の戦い/6月16~19日)。
一益は必死に戦いましたが、兵力差は歴然。敗北した一益は、命からがら本拠地の伊勢まで逃げ帰るハメになります。伊勢に帰り着いたのは7月1日のことでした。
実は、この逃避行の最中、運命の「清須会議(6月27日)」が行われていました。信長亡き後の跡継ぎを決めるこの超重要な会議に、一益は出席することができなかったのです。会議を仕切ったのは、光秀を迅速に討った羽柴秀吉。秀吉は信長の孫・三法師を推し、柴田勝家は信長の三男・信孝を推して対立しますが、結局は秀吉の主張が通ります。
大事な会議に不在だったことで、一益の織田家内での地位は急落。さらに「秀吉派 VS 柴田派」という家臣同士の対立において、一益はまたしても運に見放される選択をします。縁戚関係にあった、柴田勝家側に与することにしたのですから……。一益、それだけはダメだってば……!
賤ケ岳の戦いで、秀吉を敵に回し…
天正11年(1583)、秀吉と勝家がついに激突(賤ケ岳の戦い)。北庄城で勝家がお市の方とともに自害する中、伊勢で孤軍奮闘していた一益も、ついに秀吉に降伏せざるを得ませんでした。結果、あれほど苦労して手に入れた伊勢の所領はすべて没収。出家して「入道」となった一益は、丹羽長秀を頼って越前へと隠居します。かつての関東管領が、一気に無一文の隠居生活へ。この落差、同情せずにはいられません。
しかしまだ、このまま静かに暮らすことは叶いません。翌天正12年(1584)には秀吉から呼び戻されて合戦に駆り出されるという追い打ち。秀吉が徳川家康・織田信雄の連合軍と戦った「小牧・長久手の戦い」です。頼むから、せめて静かに余生を送らせてあげて…
失意の晩年を過ごした一益は天正14年(1586)、越前の地で亡くなりました(享年62歳)。かつての「進むも滝川、退くも滝川」という勇猛な呼び名が、どこか遠い昔のことのように感じられる最期でした。
まとめ
滝川一益の生涯は、いかがでしたでしょうか。信長の家臣として誰よりも働き、関東の頂点にまで上り詰めた一益。しかし、本能寺の変というたった一つの出来事を境に、彼を取り巻く空気は一変してしまいました。信長公さえ生きていれば…。勝家が秀吉に勝利していれば…。考えれば考えるほど「もし」が止まらない、そんな“ツイてなさ”の連続でした。戦国時代の荒波に翻弄されながらも、最後まで武士として、あるいは「元・仕事人」としての意地を見せようとした一益。その波乱に満ちた晩年に、私たちはつい、現代の苦労人を重ねて同情してしまうのかもしれません。




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