谷川岳の悲劇 1300発の銃弾で断ち切られたザイル、バウンドしながら落下する2人の遺体
- 2024/12/19
毎年のように世界各地の山の遭難事故で命を落とされる方が後を絶ちません。中でも日本の谷川岳(たにがわだけ)は標高1977mの山ですが、ギネスにも記録されている世界一遭難死者数の多い山です。そんな山で昭和35年(1960)、悲惨な遭難事故が起こりました。
死の山・谷川岳
群馬県と新潟県の県境に位置する三国連山、その中にある谷川岳は日本百名山のひとつに数えられています。この山は標高2000mにも満たない山ですが、遭難死者数世界一の山でもあります。この山での遭難事故記録を取り始めた1931年から2012年までの死者数は805人、2020年6月には818人にまで増えています。エベレストをはじめ、世界で8000mを超える山は14座あり、8000mを超えた地帯は「デスゾーン」人間の生存を許さない地域と呼ばれますが、記録に残る限り、この14座での死者総数は2011年までで791人と、谷川岳での死者数を下回っています。
谷川岳はそれほど危険な山なのでしょうか?この山の危険個所は、剱岳・穂高岳とならんで日本三大岩場に数えられる一ノ倉沢のクライミングルートにあります。標高差800mを超えるこの断崖絶壁は岩壁が険しく脆く崩れやすい、そのため滑落事故が多発しそれが死者数を押し上げました。
また谷川岳はアクセスが良く、昭和6年(1931)に上越線清水トンネルが開通してからは首都圏からの夜行日帰り可能な山として、時間的に余裕のない山好きも引き付けます。一時は最寄り駅の地下駅国鉄土合(どあい)駅に夜行列車が到着すると、我先に486段の階段を駆け上がって行く登山者の姿が見られました。これらの時間的余裕のない登山者たちも事故件数の増加につながりました。
宙吊り死亡事故発生
昭和35年(1960)9月19日午前8時半、東京地下鉄山岳会のメンバーが谷川岳中央稜衝立岩の基部を上っていた時、凄まじい落石の音と人の叫び声が聞こえて来ます。「どうしたっ!」
問いかけの声に返って来たのは
「横浜の蝸牛(かたつむり)だ。2人のうち1人が落ちて死んだ!」
との声です。
「場所はどこだ!」
との問い返しに答えはありませんでした。
この知らせは山小屋に伝わり、小屋からの電話で2人の群馬県警谷川岳警備隊員が出動、現場に到着した彼らが見たのは、衝立岩から垂直に垂れ下がった赤いザイルに吊るされ、揺れている2人の人間の体でした。それは横浜蝸牛山岳会のNさんとHさんでした。呼びかけにも応じない2人はすでに死亡したものと断定されます。
下ろすも引き上げるも困難な遺体収容
2人の死亡が確定した以上、遺体収容を急がねばなりません。時間が経てば遺体はザイルに吊るされたまま揺れ続け、山の鳥が食い荒らし腐って行き蛆がその体を覆い尽くし、凄惨な状態になるのは目に見えています。そうなる前に一刻も早く収容し遺族のもとに帰さねば。しかし遺体が宙吊りになっているのは近づくのも難しい岸壁の途中です。下手をすれば二重遭難です。関係者で遺体の収容法が話し合われました。一番良いのはザイルを引き上げての収容ですが、これは実行困難と見なされすぐに除外されます。次に十分な長さのザイルを用意し、それを継ぎ足して遺体を下ろす方法です。この方法だとベテランのクライマーが5、6人は必要で上部の足場の確保も難しく時間がかかると思われました。
一番早いと思われたのは何らかの方法でザイルを切り、2人の遺体を下の岩場へ落とすことです。しかし登山仲間の間では、遺体であっても切り落とすことなど考えられないと思う者が多かったようです。
そのころ上層部では
そのころ、事故を受けて設置された群馬県警の警備隊本部でも、収容方法が話し合われていました。出席者は遭難者2人が所属していた横浜蝸牛山岳会の代表者と警備隊長、土合山の家の主人で「谷川岳の王」と呼ばれた中島喜代志氏です。最初に検討されたのは、東京の山岳連盟や衝立岩正面壁登攀経験のある登山家に協力を仰ぎ、何らかの方法で引き下ろし、もしくはザイル切断が行えないか、とのものです。ただ、この方法では協力者の安全確保が出来ず、二重遭難が起きた時誰が責任を負うのかとの問題がありました。警備隊からも「くれぐれも二重遭難だけは避けてほしい」との要請があり、民間の第三者に協力を求める方法は却下されます。
救助者の安全が確保される方策として持ち上がったのが「銃を使う」でした。銃弾でザイルを切断するのです。中島氏は初めは猟銃ぐらいで大丈夫だろうと思ったようですが、ザイルまでの距離が150mはあり有効射程距離50mの猟銃ではとても無理です。それじゃ強力な火器を扱い慣れている自衛隊に頼むしかないかとの話になり、ここで初めて自衛隊の名前が出てきました。
自衛隊出動
この話を聞いた蝸牛山岳会のメンバーは「それしか方法が無いのならせめて自分たちの手で切りたい」と願い、要請されてではなく、自分たちの自発的な行為として実行に移します。彼らはNさんまであと3mの地点まで迫りましたがザイルの切断は出来ませんでした。これが失敗とみなされ、流れは一気に自衛隊の出動へと傾きます。22日の午前9時、山岳会の代表3名が警備本部を訪れ、「自衛隊出動要請書」を提出、23日に正式に出動が認められ、24日に射撃実施と決まります。23日、陸上自衛隊相馬原駐屯地第1偵察中隊の狙撃部隊に出動命令が下り、彼らは軽機関銃2挺・ライフル銃5挺・カービン銃5挺の計12挺を準備、弾薬2000発を携えて午後5時頃には国鉄土合駅前広場で待機に入ります。翌24日早朝4時半に広場を出発、8時半ごろに中央稜第二草付付近の射撃地点に到着します。
標的のザイルとの距離は直線で140m、射撃中は弾が岩壁に当たって跳ね返る危険があるので、辺り一帯は登山者の立ち入りを禁止します。谷をひとつ隔てた通称一本松と呼ばれる地点にはテレビカメラがずらりと並びました。
射撃開始、ザイル切断
9時15分、射撃開始が合図され40名の狙撃手が交代で遺体の10m上のザイルを狙います。ライフル銃とカービン銃を撃ち続けて1時間、ザイルは切れません。機関銃が投入され1000発の弾丸が撃ち込まれますが依然としてザイルは切れません。報道陣からは「まだなのか」の声が上がり始めます。11時15分、一旦射撃は中止されて昼休みを挟み、12時51分に再開されます。今度はザイルそのものではなく、ザイルと岩が接しているあたりに照準を合わせて撃ち続けられました。そして午後1時2分、Nさんの遺体が谷間に落下しました。続いて1時27分、今度はHさんの遺体も岩壁をバウンドしながら落ちて行きました。弾丸1300発を費やした作業です。切れたザイルを調べてみると数十発の弾痕が残されていましたが、揺れるザイルに衝撃が逃がされてしまい、切断には至らなかったようです。
おわりに
谷川岳は「人喰い山」「墓標の山」と呼ばれるほどに遭難死の多い山です。1973年には登山者が衝立岩付近で白骨遺体を見つけましたが、遺体の衣服から十銭硬貨が発見され、調べたところ1943年に谷川岳で行方不明になった男性と判明しています。なお、本記事の宙吊り遺体収容における当時の生々しいニュース映像がありました。中日映画社の公式ユーチューブチャンネルで配信されていますで、興味のある方は参考までに。
【公式】中日映画社のチャンネル:「銃撃で遺体収容 -谷川岳遭難-」No.350_2 #中日ニュース
【主な参考文献】
- 事件・犯罪研究会/編『明治・大正・昭和・平成事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版、2002年)
- 羽根田浩『山岳遭難の傷跡』(山と渓谷社、2020年)
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