実は神頼みだった戦国武将たち…鎧、陣幕、武器まで呪文だらけの徹底武装!

  • 2026/01/29
 戦国時代、馬を休める間もなく戦場を駆け抜けた武将たち。彼らは決して、腕力や知略だけで戦っていたわけではありません。いかに周到に準備を整え、緻密な戦略を練って戦に臨んだとしても、勝負の行方には最後の一線で「時の運」という人知を超えた要素が介在します。

 矢弾が飛び交い、昨日までの仲間が今日は骸(むくろ)となる過酷な日常の中で、彼らが最後に縋(すが)ったのは、目に見えぬ神仏の加護でした。

 一見、冷徹なリアリストに見える武将たちの裏側にあった、切実な「神頼み」の実態を紐解いてみましょう。

「私こそ神仏の御加護を受けるに相応しい」

 戦国時代の武法を説いた小笠原流の軍学者・小笠原昨雲(さくうん)は、自信の著した『軍法侍用集』の中でこう記しています。

「大将軍出陣の時、まず祈祷立願して軍者軍神を祀り武運長久を祈りしかる後に御出馬あるべし」

(訳:大将軍が出陣する時には、まず祈祷を行い、軍神を祀って武運長久を祈り、しかる後に馬を出すべきである)

 つまり、祈りは作戦の一部であり、勝つための「必須項目」だったのです。

 天下人・豊臣秀吉もまた、人一倍信仰を重んじた一人でした。秀吉は文禄の役(朝鮮出兵)に際して出陣する前日、京都の御香宮(ごこうのみや)に必勝祈願の参拝を行い、巫女の祓いを受けて、願いが叶うことを求めています。

「日本を統一したいま、本朝の威を天に輝かさんと思う。故に高句麗・新羅・百済の三韓を罰し給い、今に至りて我が朝に平穏無事の神威をもたらされている神功皇后ゆかりの宮に詣でて神助を願った」

(訳:日本を統一したいま、我が国の威光を天に輝かせたい。ゆえに、かつて三韓を征伐し、今日まで我が国に平穏をもたらしている神功皇后ゆかりの宮に詣で、神助を願うのだ)

 秀吉は自らの大陸出兵を神功皇后の伝説に重ね合わせ、正当性を補強しました。さらに、皇后に従った住吉大明神にも参拝し、万全の態勢を整えています。

 川中島で5度も合戦を繰り広げた武田信玄と上杉謙信も、その度に社寺に手を合わせ、戦勝と怨敵調伏(敵を呪い倒すこと)の祈願を行っています。特に謙信の祈りは「正義」へのこだわりが強く表れています。

 謙信は永禄7年(1564)の最後の川中島合戦において、越中国婦負郡(ねいぐん)惣社の姉倉比売(あねくらひめ)神社と弥彦神社に次のような願文を奉じています。

「我は輝虎(謙信)、筋目を守り非分致さざる事」

 それは「自分はこれまで信玄らと合戦を重ねてきたが、それは彼らの非道を正すための戦であり、これまでの戦いで関東・信濃・越中のいずれの国でも私領とした土地は一ヶ所も無い」という自己正当性のアピールでした。

 また、謙信は「信玄と北条氏康を退治すれば、自分の国で武士たちが横領している社寺の土地を元の持ち主に返還させ、社殿仏堂の修理や建立を行う」とも誓っています。

「自分こそが正義であり、ゆえに神仏の加護を受ける資格がある」という論理は、戦う自分たちの精神的な柱でもあったのです。

生と死を制御する「呪術装備」

 武将たちは、どのようにして神仏を味方につけようとしたのでしょうか?興味深いのは、神と仏の「使い分け」です。

 当時の考え方では、「神」は現世利益(長寿、健康、勝利、富、名声)を司り、「仏」は魂の救い(死後の極楽往生)を司るとされていました。つまり、生き残るためのパワーは「神」に、死んだ後の安心は「仏」に求めたのです。

 この考えを象徴するのが、甲冑に施された呪術的な装飾です。例えば武将たちは鎧の左袖に「摩利支天(まりしてん)」、右袖に「阿弥陀仏」の名を梵字で書き記すことがありました。  これは武将の間で広く信じられていた陰陽道の思想に基づいています。

  • 左(陽): 生路(せいじ。生き残るための道)
  • 右(陰): 死路(しじ。死にゆくための道)

 「生きている間は、インドの軍神・摩利支天の加護で敵をなぎ倒す強さを、そして武運拙く戦場に倒れた時は阿弥陀仏に導かれて極楽浄土へ…」との願いです。勝っても負けても、生きて死んでも、どちらに転んでも大丈夫なように支度したのです。

 呪術の対象は鎧だけにとどまりません。剣・弓矢・旗指物・陣幕・軍配・馬の鞭など、あらゆる武具に鎧と同様の呪術が施され、守護神仏が勧請(かんじょう)されました。特に面積の広い陣幕には、呪文や願いがたくさん書き込めます。天照大御神・八幡大菩薩・毘沙門天・不動明王・愛染明王・勝軍地蔵…、さらに般若心経の経文や、魔除けの紋印(セーマンドーマン)など、効き目がありそうなものは片っ端から書き込みました。

 陣地そのものを聖域化しようと試みたわけですね。

心の拠り所、「願文」と「念持仏」

 出陣前、武将たちは神社に必勝祈願に参拝しますし、御籤(みくじ)を引き、願文(がんもん)を捧げ、連歌会を奉納し、と用意万端です。

 願文とは、祈願の内容を布や紙にしたためて神仏に述べる詞書で、祈願文・願状・願書とも言います。実は武将たちの祈りは一方的なお願い事ではなく、神仏との「契約」という側面が強くありました。

 武将らが捧げる願文には、願い事とセットで「もし願いが叶った暁には、これほどの謝礼をします」という対価が具体的に記されていました。対価は、社殿の新築や修理・土地の寄進・多額の金銭など、実利的なものが大半です。秀吉も御香宮に対し、「勝ち戦であれば帰陣後に社殿を造営する」と約束しています。

 また、戦場へ直接神仏を持ち込む「念持仏(ねんじぶつ)」も一般的でした。  

 有名どころでは、徳川家康が常に戦場に携えた増上寺の秘仏「黒本尊(阿弥陀如来像)」があります。お身丈二尺六寸(80cm足らず)もあり、携帯用としては結構大きめですが、従者に背負わせて行ったのでしょうか?この仏は幾度もの戦場で家康の命を守り、勝利をもたらした仏として「勝運黒本尊」とも呼ばれます。

 さらに家康は賎機山(しずはたやま)にある浅間神社の境内社に祀られていた摩利支天像も戦場へ持ち込んでいました。前述の「生路・死路」の両面をカバーする、家康らしい慎重さが伺えますね。


武将が頼った軍神たち

 軍神の数は、古来より「九万八千」と言われます。現代でも使われる「血祭りにあげる」という言葉がありますが、本来の「血祭り」とは、出陣の際に敵の首を切り取り、祭壇に供えて軍神に勝利を祈る凄惨な儀式を言います。

 まず、摩利支天をはじめとする九万八千の軍神に手を合わせて祈ります。

「南無摩利支天を始め奉り一切九万八千の軍の御神、今日の首あたえ給うの処偏に武運高名の神妙なり。いよいよ武運長久」

 次に友引の方角に向かい、夜叉や羅刹といった恐ろしい鬼神・四天王の八鬼(八部鬼衆)に念じ、 さらには九魔王神(くまうじ)にまで唱えるのです。

「味方の勝利、我が身の武運長久を守り給え。急々如律令」

 なかでも九万八千の軍神の筆頭とされる摩利支天は、元を辿ればインドの暁の女神です。太陽の光の中にありながら、実体を持たない「陽炎(かげろう)」を神格化したもので、「姿が見えない=敵から攻撃されない、捕まらない」という性質もあり、戦国時代には代表的な軍神として信仰を集めました。

 この他、上杉謙信がその生まれ変わりを称した「毘沙門天」も人気でした。


おわりに

 武将たちが神仏に頼るとはいっても、時と場合によります。織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちに象徴されるように、自分の敵と見定めれば人も神仏も容赦なく攻め滅ぼしました。

 また「天下一の極悪人」と評された朝倉孝景は、家訓の中でこう断じています。

「勝つべき合戦取るべき城攻めで吉日など選んでおられぬ。方角を撰んだりして日時を費やすのは実につまらぬ事だ。どれほど占いで良い結果が出ても大風の中船を出したり、大軍に小勢で立ち向かえば吉日になどなろうはずがない」

 祈れるものはすべて祈り、利用できる権威はすべて利用する。しかし、最終的に弓を引くのは自分自身であり、現実の戦力差や天候を無視しては勝てない――。戦国武将たちの「神頼み」とは、決して弱さの露呈ではなく、人事を尽くした者が最後に求める「心のセーフティネット」だったのかもしれません。


【参考文献】
  • 本郷和人、中野信子『戦国武将の精神分析』(宝島社 2018年)
  • 志村有弘(編)『戦国武将 奇聞』(学研プラス 2010年)
  • 高橋伸幸『戦国武将と念持仏』(KADOKAWA 2015年)
  この記事を書いた人
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。
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