田安家の悲願と宝蓮院の涙 稲葉正明との約束を阻んだ意次の壁

  • 2026/05/07
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 徳川吉宗の三男・宗武に嫁いだ宝蓮院(法蓮院)は、授かった七人の子がことごとく早世するという悲運に見舞われました。そんな彼女が最後に希望を託したのが、側室の産んだ聡明な少年、田安賢丸(たやす まさまる。後の松平定信)でした。

 賢丸の才知を愛し、彼を次代の将軍へと押し上げることを悲願とした宝蓮院。しかし、その前には権力維持を狙う老中・田沼意次が立ちはだかります。意次は一橋治済と手を結び、将軍側近・稲葉正明と交わされた「田安家復帰」の約束すらも巧妙な罠で踏みにじっていくのです。

 吉宗の遺訓を偽造してまで強行された白河藩への養子縁組の裏には、江戸幕府の闇と、一人の女性の切なる願いが交錯する凄絶な政治劇がありました。後の「寛政の改革」の原点ともいえる、若き日の賢丸が辿った数奇な運命を紐解きます。

翻弄される賢丸と白河松平家の思惑

 法蓮院が育てていた賢丸は、聡明の評判が高かったことから、白河松平家は家格を上げようと考えて「賢丸をぜひ、養子に欲しい」と申し出ます。

 この申し出は一旦は断られるのですが、のちに田沼意次が10代将軍・徳川家治に進言して、話が蒸しかえされます。田沼意次にとって賢丸が将軍職につくことがあれば、田沼排斥に動くであろうことを考えての事でしたが、その企みは我が子を次期将軍候補としたい一橋治済の思惑と一致。両者は手を握ることになったのです。

 当初、白河松平家が提示した案は、〝万一、田安家に跡取りがいない場合は、賢丸を田安家に戻す〟という条件付きでした。このため、法蓮院も賢丸も、将軍につける可能性は残ると考えていました。しかし、その可能性をなくしたい意次は、その条件に目を付けたのです。

吉宗と御三卿(一橋・田安・清水)の略系図
吉宗と御三卿(一橋・田安・清水)の略系図

田沼意次の策謀

 一橋・田安・清水のいわゆる御三卿家は、8代将軍・徳川吉宗の発案ですが、吉宗は御三卿家を当主がいない場合でも、空き家として存続させるよう定めていました。

 ここに目を付けた田沼意次は、吉宗公の残された定めとして「御三卿といえども当主無き場合は取り潰しとする」という文書を偽造して賢丸に提示したのです。

 これに従えば田安家も「当主無き場合は取り潰し」ということであり、賢丸の田安家への復帰というのは無くなります。その一方、意次は将軍家治に賢丸の白河松平家への養子縁組を進めた方が良い旨を進言します。

 全ては賢丸が将軍になることを防ぐための策謀でした。

 「田安家への復帰はできない」と思い込まされた賢丸は、将軍家治の命令で白河松平家へ養子に出されます。これで田沼意次と一橋治済の策謀は成功してしまうのです。

 とはいえ、御三卿家は「当主無き場合は空き家として扱う」という決まりは順守されていたので、安永3年(1774)に賢丸の兄であった田安家当主の田安治察が死去しても田安家は「空き家」として扱われました。

 この状況に賢丸は驚いたでしょう。田沼意次から見せられた文書によると「取り潰し」になるはずだったのですから。しかし既に白河松平家の跡継ぎとして藩政を担っていた賢丸はもはや田安家への復帰を望みませんでした。

 田沼意次は将軍家治に以下のような内容で進言していたようです。

「賢丸様ほどの逸材を部屋住みの身分でおいていくのはもったいない。たとえ小藩だとしても資質を生かせる場所においた方が賢丸様の為」

 実際、賢丸は白河藩の藩政を担うことにやりがいを感じ始めていたようであり、その状況を変更する気にはなれなかったようなのです。以後、田安家は15年間、空き家として扱われます。

踏みにじられた約束、宝蓮院の無念

 賢丸の養母である法蓮院は、賢丸の白川松平家養子縁組にあたり、将軍側近である御側御用取次を務めていた稲葉正明と「治察が死去した場合は、賢丸の養子縁組を解消し、田安家は賢丸が継ぐ」という約束を交わしていたのですが、この約束も田沼意次の妨害にあって頓挫してしまいます。

 この約束に望みをつないでいた法蓮院も、ついに賢丸のことをあきらめざるを得なくなります。失意の中、天明6年(1786)に彼女は66歳でこの世を去ります。江戸時代中期に、朝廷で権勢をふるっていた近衛家久の娘として生まれ、8代将軍・徳川吉宗の三男に嫁いだ法蓮院は、一見、最も権力に近い所にいたように見えましたが、遂に江戸幕府の権力に手が届くことはありませんでした。

おわりに――「清廉」がもたらした皮肉な幕切れ

 なぜ、田沼意次は賢丸の将軍職就任の可能性を徹底的に潰しにかかったのでしょうか?

 それは賢丸の性格にあったと思われます。賢丸は成長して松平定信となり、田沼意次没落後、寛政の改革に着手しますが、その改革は一般庶民の着る着物の柄まで指定するなど、微細なところにまで及ぶ徹底的なもので非常に不評を買ったものでした。

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」

 上記の狂歌まで読まれるほどに嫌われた寛政の改革は、まさに賢丸の性格が現れたものと言えるでしょう。過ぎたるは及ばざるがごとし、という言葉がありますが、賢丸の性格はまさに「過ぎたる」ものだったのです。それを懸念した田沼意次の策謀は結果論から見ると正しかったのかもしれません。

 賢丸がもし将軍職に就いていたならば、寛政の改革は将軍在職中、ずっと継続されることになったでしょう。当時、人事権を握っていた一橋治済が些細なことを理由に松平定信を罷免し、寛政の改革が終焉を迎え、一般庶民もほっと一息つくことができたのです。

【参考文献】
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