信長九死に一生?織田軍の防衛線「13段中11段」をぶち抜いた磯野員昌とは何者か?

  • 2026/05/13
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 北近江の戦国大名・浅井長政には多くの家臣が仕えておりました。ある者は主君の滅亡に殉じ、またある者は去り、あるいは織田信長に臣従しています。

 今回はそんな浅井家臣の一人・磯野員昌(いその かずまさ)を紹介。果たして彼は、どんな生涯をたどったのでしょうか。

※浅井長政の全体像を知る→「浅井長政」総合解説ページへ

浅井家臣時代

 磯野員昌は大永3年(1523)、磯野員宗(かずむね)の子として小谷城下で誕生しました。

 磯野氏は元来京極(きょうごく)氏に仕えていましたが、浅井亮政(すけまさ。長政祖父)の代に鞍替えしています。

 父の員宗は佐和山城主の磯野員吉(かずよし)に養子入りし、代々佐和山城主を務めました。磯野の家督は員吉→員宗→員清(員昌叔父)そして員昌へ受け継がれ、浅井家中における重臣として存在感を現します。

 武勇に優れていた員昌は磯野丹波守(たんばのかみ)の官途名で国内外に知れ渡るようになり、南近江の六角義賢(ろっかく よしかた。六角承禎)との合戦ではしばしば先鋒を任されました。

 やがて大野木国重(おおのぎ くにしげ)・野村定元(のむら さだもと)・三田村秀俊(みたむら ひでとし)と並び「浅井四翼(しよく)」と称されます。翼とはクリエン(モンゴル語)の漢訳で、軍団や部隊を示す言葉でした(例:十三翼の戦い)。ここでは選りすぐりの精鋭部隊と言ったところでしょうか。

 その後、織田信長との対立が深刻化すると、元亀元年(1570)の姉川合戦でも大いに武勇を奮いました。当時の織田勢は全軍で十三段にも及ぶ構えをとっていましたが、員昌の部隊は真正面から深く斬り込み、何と十一段まで斬り崩したのです。

 一時は信長のいる本陣近くまで迫り、あと一歩でその首級を獲れるというところでした。しかし敵もさるもの、後陣に控えていた安藤守就・稲葉良通(一鉄)・氏家直元(卜全)ら美濃三人衆が駆けつけて信長を護ります。また、朝倉勢を撃破した徳川家康が応援に駆けつけたため、浅井勢は総崩れとなり敗走。員昌もやむなく退却したのでした。

 かくして信長こそ取り逃がしたものの、員昌の武名はますます高まり、その活躍は「姉川十一段崩し」と呼ばれるようになります。


織田家臣時代

 姉川で大敗を喫したとは言え、その後も員昌は佐和山城主として信長に抵抗を続けました。しかし横山城が陥落したことで長政の籠もる小谷城との連携が断たれ、佐和山城は敵中に孤立。果敢に勇戦したものの衆寡敵せず、元亀2年(1571)2月24日、員昌は信長に降伏を余儀なくされたのでした。

 織田家臣となった員昌は佐和山城を召し上げられてしまいますが、代わりに近江高島郡(滋賀県北西部)に所領を与えられます。当時の信長は琵琶湖周辺を戦略的な重要拠点ととらえ、重臣たちを配置していました。

信長の近江支配体制マップ。 Leaflet | © OpenStreetMap contributors
信長の近江支配体制マップ。 Leaflet | © OpenStreetMap contributors

  • 明智光秀:宇佐山(大津市)
  • 佐久間信盛:永原(野洲市)
  • 柴田勝家:長光寺(近江八幡市)
  • 中川重政:安土(近江八幡市)
  • 丹羽長秀:佐和山(彦根市)
  • 羽柴秀吉:横山(長浜市)

 新庄城を居城とした員昌は、彼らと並ぶ扱いを受けていたことになり、浅井旧臣の中では破格の厚遇を受けていたと言えるでしょう。恐らく「姉川十一段崩し」の武勇を恐れ、一定の敬意を払っていたものと考えられます。


 しかしこれには条件があり、員昌は信長の甥に当たる津田信澄(つだ のぶずみ)を養子に迎えさせられました。この養子縁組は人質というより家督の乗っ取りに等しく、やがて員昌は権益を縮小され、後に家督を譲らされたと考えられています。

 それでも天正元年(1573)に信長を狙撃した杉谷善住坊(すぎや ぜんじゅうぼう)を捕らえたり、天正3年(1575)に越前一向一揆の鎮圧に従軍したりと、持ち前の武勇を発揮したのでした。

出奔と晩年

 しかし天正6年(1578)2月3日、員昌は突如として織田家から出奔してしまいます。信長の意に背いたために叱責されたそうですが、具体的な理由については記録されていません。一説には、信澄に家督を譲って隠居するよう、信長に迫られたからだとされているようです。

 織田家を出奔した員昌は数年間にわたって放浪し、天正10年(1582)に本能寺の変で信長や信澄が横死を遂げると、旧領の高島郡に戻って帰農しました。そして天正18年(1590)9月10日に68歳で世を去ります。

 信長の死後に織田政権を乗っ取った豊臣秀吉が、小田原北条氏を降して天下一統を成し遂げた年でした。かつて刃を交え、織田家中に轡を並べた秀吉の栄華を、員昌はどのような思いで見ていたのでしょうか。

終わりに

 今回は浅井・織田家に仕えた猛将・磯野員昌の生涯をたどってきました。息子の磯野行信(ゆきのぶ)や磯野政長(まさなが)らは石田三成や藤堂高虎に仕え、磯野の家名を存続させます。藤堂高虎はかつて員昌に仕えていたことから、高虎は旧恩に報いたのでした。

 果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、磯野員昌が登場するチャンスは残っているでしょうか。一番の見せ場であった姉川十一段崩しがなかったので、もはや微妙な気もしますが、最後まで希望を持って見守りたいと思います。

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【参考文献】
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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