「足利義昭」最後の将軍の全軌跡…兄の悲劇、信長との決別、鞆幕府、秀吉の御伽衆まで
- 2026/03/10
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天下統一を志す織田信長の飛躍を後押しし、やがてはその道を阻む最大の「向かい風」となった存在。それが室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかが よしあき)です。信長という強大な後ろ盾を得て将軍の座に就きながら、なぜその信長に京都を追われたのか。
単なる「信長に負けた無力な将軍」というイメージの裏側に隠された、将軍としての矜持、そして室町幕府再興にすべてを捧げた執念の生涯を紐解きます。
単なる「信長に負けた無力な将軍」というイメージの裏側に隠された、将軍としての矜持、そして室町幕府再興にすべてを捧げた執念の生涯を紐解きます。
【目次】
兄・義輝の悲劇と仏門からの帰還
義昭は天文6年(1537)、第12代将軍・足利義晴の次男として生を受けました。母親は近衛尚通の娘であり、1歳上の兄にはのちに第13代将軍となる足利義輝がいます。この時代、将軍家の家督争いを避けるため、後継者以外の男子は出家するのが慣例でした。兄の義輝が華々しく次期将軍としての教育を受ける傍ら、義昭はわずか6歳で奈良の興福寺一条院へ入室。法名である「覚慶(かくけい)」を授かり、仏の道を歩みはじめます。
当時の京都は、応仁の乱以降続く将軍権威の失墜が極限に達し、管領の細川氏や、その実力者である三好氏らによる政権争いの中心地となっていました。第13代将軍となった兄・義輝は、将軍権威の復活を目指して精力的に活動しますが、天文18年(1549)には、三好長慶が晴元を追放して「三好政権」が成立。以後10年間ほど、義輝は三好政権と敵対し、将軍でありながら京を追われ、帰還と抗争を繰り返しましたが、最後は和解しています。
一方で覚慶(のちの義昭)は、永禄5年(1562)には門跡となり、順調にいけばこのまま興福寺の要職に就くはずでした。しかし永禄8年(1565)、三好義継や松永久秀らによるクーデター「永禄の変」により、義輝が討たれたことで、その運命は一転します。その状況から義昭は否応なしに「足利幕府再興」という重すぎる十字架を背負わされることになったのです。
幕府再興を掲げた流浪の旅
義輝暗殺後、義昭は興福寺の一条院に幽閉され、三好勢による監視下に置かれました。いつ殺されてもおかしくない状況でしたが、ここで動いたのが幕府奉公衆の細川藤孝(幽斎)や和田惟政ら、将軍家に忠義を誓う家臣たちです。彼らは命懸けで義昭を脱出させ、近江国の矢島へと逃れます。ここから、義昭の長きにわたる流浪の旅が始まりました。「義栄」との正統性争い
当時、三好勢は義昭の従兄弟にあたる足利義栄(よしひで)を第14代将軍に擁立しようとしていました。義昭はこの「傀儡将軍」に対抗するため、自らが足利氏の正当な継承者であることを証明しなければなりませんでした。永禄9年(1566)に還俗して「義秋(のちに義昭)」と名乗ったのも、その覚悟の現れです。越前・朝倉氏への期待と失望
三好勢による矢島への襲撃などもあり、義昭は妹婿である武田義統を頼って若狭に拠点を移しています。『言継卿記』によると、このとき義昭が若狭国に逃れた際のお供の数はわずか5人だったといいますから、まさにどん底の状態ですね。しかし、若狭国でも武田義統と嫡男の元明がもめていたことで、義昭は最終的に越前国(現在の福井県)の有力大名・朝倉義景を頼り、永禄10年(1567)11月からは越前国一乗谷の安養寺で暮らすようになりました。
当時の朝倉氏は文化水準も高く、軍事力も備えた名門でした。義昭は義景に上洛の助力を請いますが、当の義景は慎重、あるいは優柔不断な性格からか、一向に動こうとはしません。朝廷から従五位下左馬頭(さまのかみ)に叙任されてはいた義昭ですが、このまま一乗谷に安住していては、悲願の征夷大将軍に届くことはありません。永禄11年(1568)4月、元服を経て「義昭」に改名したものの、一向に兵を動かさぬ義景に対し、その胸中は焦燥しきっていたに違いありません。
「御内書」外交
しかし義昭は時間をただ無駄に浪費していたわけではありません。全国の戦国大名に向けて、協力を要請する書状を乱発し、自らのネットワークを構築していったのです。記録に残る主な宛先だけでも、以下のように多岐にわたります。上杉謙信(越後)、武田信玄(甲斐)、北条氏康(相模)、由良成繁(上野)、斎藤龍興(美濃)、織田信長(尾張)、畠山義綱(能登)、朝倉義景(越前)、六角承禎(近江)、十市遠勝(大和)、赤井直正(丹波)、吉川元春(安芸)、相良義陽(肥後)、島津貴久(薩摩)・・・
特筆すべきは、義昭が「敵対する大名同士の和睦」を盛んに行っていた点です。信長と斎藤龍興、上杉謙信と武田信玄など、争いを調停することで自分の影響力を示し、「将軍がいなければ平和は訪れない」という空気を作り上げようとしました。
中でも義昭がもっとも頼りにしていたのが軍神の異名をもつ上杉謙信です。しかし謙信は武田・北条との戦いもあり、上洛のための軍を動かす余裕はありませんでした。他の大名たちも義昭の権威を尊重するポーズは見せるものの、自国の安全を犠牲にしてまで上洛を支援しようとはしませんでした。
しかし唯一、この「将軍」というカードを最大限に利用しようと考えていたのが、織田信長だったのです。
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信長の軍事支援による悲願の上洛
美濃の斎藤氏を滅ぼした織田信長は、その翌年の永禄11年(1568)6月に義昭を岐阜へ招き入れます。ここから歴史は急速に動き出します。電光石火の上洛作戦と将軍宣下
8月には佐和山城で浅井長政と上洛の打ち合わせをし、9月には6万の軍勢を率いて出陣します。義昭を奉じた信長の軍勢は、抵抗する近江の六角氏を瞬く間に粉砕。京都を占拠していた三好三人衆を阿波へと追い落とし、わずか半月足らずで入京を果たしました。同年10月、義昭はついに念願の第15代征夷大将軍に就任します。三好三人衆に擁立されていた14代将軍の義栄は直前に病没したため、ここに義昭が将軍となることができたわけです。
「御父」と呼んだ信頼
将軍就任直後、義昭と信長の関係は良好そのものでした。義昭は信長に「副将軍」か「管領」のポストを勧めましたが、信長はこれを辞退しています。代わりに信長が求めたのは、堺などの直轄地の支配権や、実利的な権限でした。この時、義昭は信長に感謝の意を込め、書状の中で彼に対して「御父(おんちち)」という言葉を用いています。単なる儀礼的な表現を超え、義昭が信長に全幅の信頼を寄せていたことが伺えます。しかし、この「父子」のような関係は、統治のあり方を巡ってすぐに崩壊へと向かうことになるのです。
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二頭政治の崩壊と信長との決別
義昭が将軍となってから、しばらくは義昭と信長による連合政権の状態が続きました。しかし、義昭が求めたのは、かつての足利尊氏や義満が築いた「武家の棟梁」としての絶対権力。一方で信長が求めたのは、義昭を看板に据えた「信長による新秩序」でした。この根本的なビジョンの違いが、二人の間に決定的な亀裂を生みます。殿中掟(でんちゅうおきて)による縛り
信長が永禄12年(1569)に義昭に突き付けた殿中掟9ヶ条、並びに追加された7ヶ条は、幕府の規定を再確認するものであると同時に、義昭が勝手に諸大名へ御内書を出すことを禁じるものです。これは事実上の「将軍の政治活動の封殺」であり、書状を唯一の武器とする義昭にとってそれを奪われることは、将軍としての死を意味しました。
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信長包囲網の形成
自分を傀儡(かいらい)にしようとする信長に憤った義昭は、かつて培ったネットワークをフル活用し、密かに「信長包囲網」を構築。信長の敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、石山本願寺(顕如)などに、信長を討つよう密書を送り続けました。こうした中、甲斐の武田信玄までもが信長包囲網に加わります。元々信玄は信長とは同盟関係にありましたが、義昭の要望を受けて元亀3年(1572)10月、西上のために出陣。信長の同盟国である徳川家康の領土を侵攻していきます。信長は四方を敵に囲まれ、危機的状況に陥ることになります。
十七カ条の異見書
義昭の不穏な動きを察知していた信長は、信玄の西上作戦が始まる直前に、義昭に対して痛烈な抗議文を突きつけています。これが有名な「十七カ条の異見書」です。その内容は、「将軍としての振る舞いがなっていない」「贅沢をしすぎている」「嘘をついている」など、義昭の人間性そのものを否定するような侮辱的なもの。この時点で両者の関係は修復不可能なものとなったのです。
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槙島城の戦い:室町幕府の終焉
元亀4年(1573)、武田信玄が西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍を撃破すると、義昭はついに公然と挙兵します。しかし、運命はまたしても義昭を見放しました。頼みの綱であった信玄が、進軍の途上で亡くなってしまいます。
後ろ盾を失った義昭に対し、信長は容赦なく軍を差し向けます。一度は朝廷の仲介によって和睦するものの、義昭の打倒信長の気持ちは揺るがず、7月には二条御所から槙島城(京都府宇治市槇島町)に移り、徹底抗戦の構えを見せます。もちろん信長の軍勢に勝てるわけもなく、あえなく降伏。義昭は息子の義尋を人質として信長に差し出し、京都を追放されました。
一般的にこの事件をもって室町幕府は事実上滅亡したと定義されます。しかし、義昭自身の戦いはここからが本番でした。
追放後の義昭が執念を燃やした「鞆幕府」
京都を追われた義昭は、一介の浪人になったわけではありません。彼は依然として「征夷大将軍」の位を保持したまま、各地を転々としました。毛利氏を頼り、備後へ
河内国の若江城や和泉国の堺に移り、毛利氏を頼りにしたいものの、しばらくは紀伊国の興国寺に長く留まりました。天正4年(1576)には最終的に毛利氏の庇護下に入り、備後国の鞆(現在の広島県福山市)に拠点を構え、「事実上の幕府」として機能させようとしました。これを歴史学では「鞆幕府(または備後幕府)」と呼びます。
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執念の打倒信長
義昭は京を追放された後も、各国の戦国大名に対して執拗に御内書を出し続けていました。その目的は一貫して「信長を討ち、京都へ帰還すること」です。やがて本能寺の変(1582)が勃発し、信長はこの世を去りました。本能寺の変の原因究明の議論の中で、光秀を陰で操っていたという黒幕説がいくつか存在しますが、その一つに藤田達生氏が提唱した「義昭黒幕説」があります。義昭が黒幕だったと囁かれるのも、この時期の義昭の執念深い工作が背景にあるからです。
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晩年は秀吉の御伽衆として
天正10年(1582)、本能寺の変で信長がこの世を去りました。義昭にとって、宿敵の死は千載一遇のチャンスに見えたはずです。しかし、時代は既に「足利の権威」を必要としない段階へ進んでいました。信長の天下統一事業を受け継いだ秀吉は、天正11年(1583)に柴田勝家を破って織田家中を掌握。その後は徳川家康をはじめ、四国の長宗我部、中国の毛利を従属下に置き、天正15年(1587)には島津氏も降伏させて九州まで平定。この年に義昭は秀吉に招かれて入京しています。関白となり絶大な権力を誇る秀吉を見て、さすがの義昭ももはや幕府再興の夢を諦めたようです。
天正16年(1588)、義昭はついに将軍職を辞しました。これにより、名実ともに室町幕府は歴史の幕を閉じました。秀吉からは山城国槙島などに1万石の知行を与えられ、僧として「昌山(しょうざん)」と号しました。
秀吉時代の義昭は、朝鮮出兵のために肥前国名護屋まで秀吉に従事し、小早川隆景の第一隊に続く第二隊3500を率いたと記録されています。その後は御伽衆(おとぎしゅう)のひとりとして重用、秀吉の話し相手を務めたようです。かつて打倒信長に執念を燃やしていた男は、信長の後継者・秀吉のもとで、穏やかな晩年を過ごしたのです。
そして慶長2年(1597)、義昭はその波乱に満ちた生涯を閉じました。なお、義昭の長子・義尋は、興福寺大乗院の法嗣として入院しており、義昭の正統な血筋は途絶えています。
おわりに
義昭の室町幕府再興への執念は凄まじいものがありましたが、それ以上に信長への並々ならぬ対抗心に驚きます。かつては御父とまで尊敬の意を表していただけに、幕府を傀儡化しようとする信長の本性を知って裏切られた気持ちが強かったのでしょう。信長の死後は憑きものが取れたかのように幕府再興の熱意が薄らいだようにも思えます。武家の棟梁としての意地が、武家の新興勢力である信長への対抗心の支えになっていたのかもしれません。一方で、だからこそ武家ではなく関白である公家の秀吉に対しては、あまり抵抗なく降伏できたのではないでしょうか。









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