その昔、海水浴は泳ぐためじゃなかった? 時代とともに姿を変えた「日本の海水浴史」
- 2026/08/27
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海水浴の起源は平安の「潮湯治」
夏の季語として知られる海水浴の起源は、平安時代まで遡ります。当時は「潮湯治(しおとうじ)」と呼ばれ、下半身を海水に浸す一種の健康法として貴族の間に広まりました。別名を「塩湯浴み」や「潮浴み」と言い、温泉地に逗留する通常の湯治とは区別されていました。特筆すべきは、単なる民間療法にとどまらず、穢(けが)れを洗い流して身を清める「禊(みそぎ)」の意味も兼ねていた点です。日本神話に登場する国生みの神・イザナギノミコトは、黄泉の国から帰還した直後に泉の水で禊を行いました。彼が禊をしたとされる「御池(みそぎいけ)」は、『古事記』に次のように記載されています。
「竺紫のヒムカの橘の小門の阿波岐原」
現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町に実在している場所です。古代においてこの地域が海だった可能性を考えると、イザナギノミコトこそが「初の海水浴体験者」と言っても過言ではないかもしれません。
また、塩の消毒作用からの連想か、海水が皮膚病の特効薬と考えられていたのも面白いですね。あながち迷信とも言い切れない証拠に、潮湯治を海洋療法(タラソテラピー)の元祖と位置付ける見方が可能です。
平安後期の和歌には「潮浴み」や「塩湯浴み」の記述が散見され、一部の貴族が潮湯治を好んでいた事実を裏付けています。鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝も、鎌倉の海で潮浴みをしたことが歴史書『吾妻鏡』に記されています。
ほかに潮湯治にまつわるエピソードとして、『方丈記』の作者・鴨長明の記述も有名です。
「生魚(なまいおみ)の 御あへもきよし酒もよし 大野の湯あみ日数かさねむ」
(意訳:魚も酒も美味しくて うっかり長居しちゃったよ)
上記は、順徳天皇が伊勢神宮参拝帰りに立ち寄った愛知県大野海岸の思い出を綴った句。海の幸に舌鼓を打ち、塩湯治を満喫している楽しげな様子が伝わってきます。
また、応徳3年(1086)成立の『後拾遺和歌集』には、中納言・源資綱(みなもとのすけつな)が歌を詠んだ記録も残されています。
「播磨の明石といふところに潮浴みにまかりて 月のあかゝりける夜中 宮の臺盤所に奉り侍りける」
磯遊びと潮干狩りでリフレッシュする江戸っ子たち
海水浴ブームの先駆けとして、江戸っ子を魅了したのが「潮干狩り」。もともと埋立地だった江戸には、芝浦・高輪・品川・佃島・深川・洲崎・中川などに肥沃な干潟が点在し、大きなアサリやハマグリ、活きの良いヒラメや小魚がたくさん獲れました。
アサリをたっぷり炊き込んだ「深川めし」が江戸名物に挙げられることからも、潮干狩りの人気ぶりが窺えますね。
江戸の年中行事を紹介した『東都歳時記』にも「汐干(しおひ)」として掲載され、「当月(三月)より四月に至る そのうち三月三日を節(ほどよし)」と記されています。旧暦3月3日は1年で最も潮の満ち引きが大きい「大潮」の日にあたり、潮干狩りの絶好のピークとされてきました。
浮世絵師・鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)が描いた錦絵『潮干狩』には、舟に持ち込んだ七輪でハマグリを焼き、砂浜で宴会に興じる江戸っ子たちの姿が描かれています。わちゃわちゃとした賑やかな雰囲気に、思わず頬が緩んでしまう魅力があります。
潮干狩りの由来は、雛祭りに行われていた禊の習慣「潮垢離(しおごり)」だと言われています。時代が下るとともに、それが大衆へ伝播し、長屋の住人同士で誘い合って船を借り、沖へ漕ぎ出して遊ぶ口実になったのでしょうね。
江戸の売れっ子俳諧師・宝井其角(たかいきかく)は、「親にらむ 平目を踏まん 汐干かな」と詠んでいます。そんな寄り目になったのは親を睨んだせいだろう、とヒラメを追い回した実体験から着想を得たそうで、ユーモアが利いていますね。
蘭学医・松本順の政策で海水浴がブームに
日本で本格的な海水浴ブームが訪れたのは、文明開化を迎えた明治時代。留学経験のある医師たちが海洋療法の効能を論文で発表し、娯楽と健康の両面から海水浴を推奨する欧米文化が追い風となりました。こうして岡山県倉敷市沙美海岸に、日本最古とされる「沙美海水浴場」が誕生します。沙美海水浴場の前身は療養施設を兼ねた仮小屋でしたが、黒崎村長・吉田親之と彼に賛同した医師・坂田待園らの尽力により、明治15年(1882)に正式オープンを果たしました。
一方、神奈川県の照ヶ崎海岸に「大磯海水浴場」を開設したのが、陸軍軍医総監も務めた蘭学医・松本順です。オランダ軍医・ポンぺに師事した松本は、オランダの文献で海水浴の効能を知ると、初代内閣総理大臣・伊藤博文に働きかけて鉄道の停車場(大磯駅)を誘致し、大磯を別荘地として開発することで海水浴場の実現を成し遂げました。
当時の大磯海水浴場では、風紀の乱れを危惧した神奈川県によって「男女混泳」が禁止され、利用エリアが厳密に分けられていました。女性が肌を見せることがほとんどなかった時代に、タイトな水着は刺激的すぎたのでしょうね。
明治20年代には風光明媚な湘南海岸が人気スポットとなり、膝丈ワンピースに2色のボーダーニット柄を基調とする「シマウマ水着」に身を包んだ男女で賑わいました。
このシマウマ水着ブームは大正時代まで続いたようで、大磯郷土資料館の常設展示では、海岸でポーズを決めるモダンガールの写真を見ることができます。現地を訪れた際はぜひチェックしてみてください。
その後、海水浴場は全国規模で増加し、日本人の夏のレジャーとして完全に定着します。ジブリ映画『火垂るの墓』で清太と節子が一家で訪れたのは、明治40年(1907)に兵庫県西宮市にオープンした「香櫨園浜海水浴場」です。現在は御前浜公園として整備され、当時の面影を残しています。谷崎潤一郎の小説『卍(まんじ)』にも登場するので、文豪の聖地巡礼をしたい方は必見です。





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