大政奉還の真意──なぜ徳川慶喜は政権を返したのか? 慶喜が描いた「徳川主導の議会制」の構想
- 2026/07/09
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慶応3年(1867)10月14日、将軍・徳川慶喜は京都の二条城に諸大名を集め、「大政奉還(たいせいほうかん)」を行いました。上段に座る将軍の前で、諸大名が一斉に平伏する絵は教科書でもお馴染みです。
これにより、徳川幕府は平和裏に朝廷へ政権を返上したことになります。しかし、「なぜ慶喜は、あれほど強大だった政権を自ら手放したのか」と疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
実は、慶喜は決してあっさりと降伏したわけではありません。大政奉還は、政治的な駆け引きとして行なったというのです。一体どういうことなのか、解説していきましょう。
これにより、徳川幕府は平和裏に朝廷へ政権を返上したことになります。しかし、「なぜ慶喜は、あれほど強大だった政権を自ら手放したのか」と疑問を持つ方も多いのではないでしょうか。
実は、慶喜は決してあっさりと降伏したわけではありません。大政奉還は、政治的な駆け引きとして行なったというのです。一体どういうことなのか、解説していきましょう。
大政奉還の背景
日本では、源頼朝が天皇から征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を開いて以来、将軍をトップとする武士階級が実質的な統治権、すなわち「大政」を担ってきました。この体制はヨーロッパの封建制としばしば比較されますが、決定的な違いがあります。ヨーロッパの領主(王侯貴族)が法的な支配権や徴税権だけでなく「土地そのもの」を所有していたのに対し、日本の将軍や大名は、法による統治や年貢の徴収は行うものの、土地そのものを私有しているわけではない、という点です。
この特殊な統治構造が、幕末にクローズアップされることになります。ペリー来航によって日本が開国した際、外国人は徳川将軍を事実上のトップと考えて条約を結びました。しかし国内では、「京都の天皇の許可(勅許)を得ずに勝手に条約を結んだ」として、開国に反対する攘夷派が猛反発したのです。
外国人の中でいち早くこの歪みに気づいたのが、日本語に精通していたイギリスの外交官アーネスト・サトウでした。「実は京都の天皇こそが真のトップであり、徳川将軍は大政を委任されているに過ぎない」ということを見抜いたのです。
アーネスト・サトウ──天皇を「Emperor」と呼ぶきっかけを作った男が変えた日本の形
当時の日本では「鎖国は神代の昔からの国法だ」と信じられていたほどでしたが、尊王攘夷運動の高まりとともに、志士たちの間で「江戸幕府は天皇から国政を委任されているだけだ」という事実が強く意識されるようになっていきました。その後、薩摩藩や長州藩の資金援助やブレーン的な入れ知恵もあり、京都の公家たちの発言権が急速に拡大します。これに対して幕府は、朝廷と協力して国難を乗り切ろうとする「公武合体(こうぶがったい)」路線を打ち出しました。
このときに幕府はあらためて、自らの権力の正統性を確かなものにするべく、「朝廷による幕府への大政委任」を再確認してきちんと制度化することを朝廷に要求していたほどです。それほどまでに「大政の委任」という大義名分は、幕府の存在意義そのものでした。
そして慶応2年(1866~67)に、14代将軍・家茂と孝明天皇が相次いで崩御したことで、時代の歯車は一気に加速していきます。
「船中八策」は大政奉還の原案ではない?
大政奉還というアイデア自体は、決して降って湧いたものではありません。以前から勝海舟や、松平春嶽のブレーンであった儒学者・横井小楠(しょうなん)ら開明的な知識人によって提唱されていました。しかし、当時の幕府は公武合体の推進に固執していたため、現実味を帯びることはなかったのです。そしてこの大政奉還は、坂本龍馬が土佐藩の船「夕顔」の船中で土佐藩の参政・後藤象二郎に語ったものを、海援隊士の長岡謙吉が書きとめた『船中八策』(せんちゅうはっさく)が原案とされていました。しかし、21世紀に入ってからの研究では、これが龍馬独自のオリジナルアイデアではないという見方が濃厚となっています。とはいえ、龍馬がまったく無関係だったわけではありません。彼が様々な有力者と会って集約した意見を、後藤象二郎に進言したことは間違いないようです。
実際の歴史の流れを見ると、慶応3年(1867)5月に薩摩藩と土佐藩の間で「薩土討幕の密約」が結ばれた後、6月に後藤が土佐藩の福岡孝弟らに大政奉還論を主張。これに薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)らが同意し、6月22日に「薩土盟約」が締結されます。
その後、後藤から進言を受けた前土佐藩主・山内容堂が、10月3日に建白書として老中・板倉勝静を通じて慶喜に提出。慶喜がこれを採用したことで、10月14日の二条城における大政奉還へとつながったのです。
この報を聞いた坂本龍馬は慶喜の英断を絶賛し、大政奉還後に立ち上げる新政権のメンバーの中に、慶喜の名前を盛り込んでいたという説もあります。
慶喜の政権構想プラン
一見すると、慶喜は容堂の建白書を受け入れて、あっさりと権力を手放したように見えます。しかし、ここには慶喜の深い計算がありました。「朝廷には、国家を統治するノウハウもなければ、財政的な基盤もない。形だけ政権を返したところで、国政を回すためには必ず自分たち旧幕府の力に頼らざるを得なくなるはずだ」
そう睨んでいたのです。
この当時、慶喜の側近には、オランダのライデン大学で3年間法学などを学び、帰国したばかりの西周(あまね)がいました。慶喜は大政奉還の前日である10月13日以降、西周に新たな政権構想を相談。それを受けて西が11月に書き上げた、徳川家を中心とする具体的な政権構想のプランが「議題草案(ぎだいそうあん)」です。
これは形式的な三権分立で、諸大名領はそのまま、領国内の政治を議政院の立法の範囲で認め、軍事権も当面は諸大名が持つが、数年後は「大君」の中央政府へ統轄されるというもの。もちろん「大君」は慶喜で、各事務府の人事権、上院議長兼任で下院の解散権、両院の裁定権も「大君」が握るというものです。
一方で、天皇には政治上の実権を与えず、法の欽定権(法を認可する権限)はあっても拒否権は持たせないものとし、領地も山城一国(現在の京都府南部)のみという、徳川家中心の現実的なものでした。
慶喜は大政奉還こそしたものの、依然として将軍職のままであり、軍事指揮権も保持していました。なので、このような政権構想を用意して、朝廷がまた自分主導で「大政」を任してくれる、と待ち構えていたのではないでしょうか。
しかし、慶喜の目論見は裏目に出ます。翌年(1868)1月3日、薩長を中心とする倒幕派によって「王政復古の大号令」が発令され、慶喜を完全に排除した天皇中心の新政府が樹立されてしまったのです。
王政復古の大号令と小御所会議の真実。徳川幕府が滅亡を避けられなかった理由
おわりに
大政奉還論は、平和裏に政治体制の変革を目指す構想でしたが、薩摩藩の西郷隆盛は、アメリカ独立戦争やフランス革命の知識をもとに「武力革命こそが正義」と考えていたようです。また、慶喜の持つ卓越したカリスマ性や政治的手腕は、幼い天皇を頂く新政府にとって大きな障害になると考えていたので、何が何でも慶喜を排除するつもりだったのです。薩摩側が後藤の提案に同意したのも、慶喜が大政奉還を拒否することを想定し、武力討幕の口実にするためだったといわれています。現に大政奉還の同日には、「討幕の密勅」が秘密裏に薩摩藩と長州藩に下され、慶喜や松平容保らの追討が命じられたのですが、慶喜が大政奉還を行ったことで武力行使の目論見は不発に終わりました。
まさにギリギリの政治の駆け引きで、武力衝突が避けられていたのですが、これをもって現代では、慶喜が武力衝突を出来るだけ避けた、もっと言えば平和主義者のように言われることがあります。
しかし、慶喜がこの決断に至った根本には、「幕府と朝廷が争うことになっても、朝廷に弓を引いてはならない」という父・徳川斉昭の教えがありました。結局は慶喜自身が「朝敵」になることをひたすらに恐れていたからでしょう。それはその後の鳥羽伏見の戦い後の大坂城からの逃亡にも通じると言えます。
天皇主権の新政府が倒そうとした旧幕府の徳川将軍が、実は尊王攘夷運動の本家である水戸の出身であり、尊王の権化だったなんて、まさに幕末という時代の皮肉と言えるのではないでしょうか。





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