王政復古の大号令と小御所会議の真実。徳川幕府が滅亡を避けられなかった理由

  • 2026/07/09
小御所会議で山内容堂(左)と岩倉具視(右)が激論する場面(島田墨仙筆、パブリックドメイン)
小御所会議で山内容堂(左)と岩倉具視(右)が激論する場面(島田墨仙筆、パブリックドメイン)
  • ※本記事は一部にプロモーションを含みます
 徳川15代将軍・慶喜の大政奉還、それに続く「王政復古の大号令」により、600年続いた武家政権は終焉を迎えました。その直後、慶喜の処遇を巡って開かれた最初の会議が「小御所会議(こごしょかいぎ)」です。

 「大政奉還」「王政復古の大号令」「小御所会議」――。

 学校では丸暗記しがちなこれらの事件ですが、実は徳川家の生き残りをかけた慶喜の「天才的戦略」と、それを阻む薩摩藩の「執念の暗躍」が激突した、一連の壮大な政治クーデターでした。

  • 大政奉還:武力倒幕を避けるため、慶喜自らが政権を朝廷に返上。「朝廷には政治能力がないため、結局は自分が新政府のリーダーに選ばれる」という計算による平和的な布石。(慶喜の作戦)
  • 王政復古の大号令: 慶喜の計画を察知した薩摩藩らが御所を軍事封鎖し、新政府樹立を宣言。「徳川家を完全に排除する」ための力技のクーデター。(薩摩の逆襲)
  • 小御所会議:大号令の直後、慶喜に「領地返上」などを突きつけた会議。ここで徳川の運命が決定づけられた。(最後の決戦)

 稀代の論客であった慶喜の知略をもってしても、なぜ徳川幕府は滅亡の運命を避けられなかったのか。その舞台裏で繰り広げられた、恐るべき政治合戦の真実に迫ります。

慶喜が四侯会議を崩壊させ、倒幕への引き金に

 まず、大政奉還が行われる直前の慶応3年(1867)5月、京都で有力雄藩の代表による「四侯会議(しこうかいぎ)」が開催されました。出席者は、薩摩藩主の父・島津久光、越前福井藩前藩主・松平春嶽、土佐藩前藩主・山内容堂、そして宇和島藩前藩主・伊達宗城の4人です。

四侯会議のメンバー(左上:島津久光、右上:松平春嶽、左下:山内容堂、右下:伊達宗城、パブリックドメイン)
四侯会議のメンバー(左上:島津久光、右上:松平春嶽、左下:山内容堂、右下:伊達宗城、パブリックドメイン)

 この四侯会議は、前年に薩長同盟を結んだ薩摩藩が、朝敵(朝廷の敵)の汚名を着せられていた長州藩の名誉回復を図るとともに、幕府の勢力を奪って朝廷側に政治体制を持って行くことを画策して、雄藩の代表を集めたものです。正式な官職に準じるものとして、将軍や朝廷に対する諮詢機関(しじゅんきかん)とされ、当時もっとも重要だった「長州藩の名誉回復」と「兵庫開港問題」について決定するはずでした。

 特に兵庫港(神戸港)は、安政5年(1858)の日米修好通商条約などにより元々は1863年に開港予定でしたが、攘夷派だった孝明天皇の反対で延期されていました。幕府は列強外交団から強い圧力を受けており、慶応3年(1867)12月7日の開港期日が目前に迫っていたのです。

 言うまでもなく、薩摩主導で始まったこの会議の裏には、薩摩藩首脳の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが控え、島津久光をバックアップしていました。

 ところが、5月4日の初会合から数えて5回目の会議が二条城で開催され、兵庫開港を強く望む将軍・慶喜が加わると、流れが変わります。「長州藩の名誉回復」と「兵庫開港」のどちらの議題を優先するかで慶喜と久光が激しく対立し、会議はたちまち頓挫してしまったのです。久光側の大久保が春嶽を、小松が宗城を説得に回り、慶喜の主導権を阻止しようと試みましたが、最終的には「長州問題を先に処理すべき」という連名の建議書を提出するにとどまりました。

 その後、5月23日には摂政の二条斉敬(なりゆき)も同席し、山内容堂が病気で欠席のため、宗城と春嶽のみが出席する形で会議が再開されました。夕方から始まったこの会議で、慶喜は兵庫開港を拒む朝廷側の抵抗に対し、粘り強く説得を続けます。慶喜は、西郷や大久保らの裏工作が入る前に、徹夜をしてでも議決に持ち込む覚悟だったといわれています。そして明け方、ついに二条が慶喜の熱意に折れ、兵庫開港と長州問題について明治天皇の勅許(正式な許可)を得ることが決定。慶喜の政治的手腕による完全勝利でした。

 しかし、このときの慶喜の圧倒的な説得力を目の当たりにした西郷や大久保ら薩摩藩首脳陣は、「諸侯会議の枠組みで慶喜を牽制するのは不可能だ」と痛感します。すでに5月21日には、中岡慎太郎の仲介で土佐藩の討幕派である乾退助(板垣退助)や谷干城(たにたてき)らと「薩土討幕の密約」を結んでいましたが、5月25日には薩摩藩邸で重臣会議を開き、武力による討幕を推進することになったのです。

 このことは、軍役奉行の伊地知正治から久光に伝えられ、薩摩藩は秘密裏に岩倉具視と結託。中山忠能(ただやす)ら公家とも協力しながら、討幕の密勅(秘密の命令)を下すための工作へ動き出しました。

なお、これに遡ること4年前の文久4年(1864)にも、ほぼ同じメンバーで「参預会議(さんよかいぎ)」が開催されていました。このときも「八月十八日の政変」後の長州藩の処分問題や横浜鎖港問題を巡って島津久光と慶喜が激しく対立。中川宮の酒席で泥酔した慶喜が、中川宮や久光、春嶽、宗城に対して「天下の劇悪人」などと暴言を吐いたことで参預会議は空中分解し、慶喜が将軍後見職を辞任して禁裏御守衛総督に就任するという事件がありました。

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 慶喜が極めて優秀な論客であったことは明白ですが、その辣腕ぶりがかえって周囲の警戒を呼び、裏目裏目に出てしまっている印象を受けます。

王政復古クーデターへ

 慶喜に論破された経験から、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通ら薩摩藩首脳は、力技による「王政復古クーデター」の準備を進めていきました。一方で、土佐の前藩主・山内容堂は一貫して公武合体派(朝廷と幕府の協調を目指す立場)であり、四侯会議を途中で欠席するなど薩摩とは距離を置き、あくまで徳川家を擁護する立場をとっていました。

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 こうした背景の中、容堂は家臣の後藤象二郎から「大政奉還論」を進言されると、これを慶喜に建白(提案)します。薩摩藩が岩倉具視らを動かして「倒幕の密勅」を出させた、まさにその同じ日に、慶喜は先手を打つ形で大政奉還を表明したのです。

聖徳記念絵画館壁画「大政奉還」。パブリックドメイン
聖徳記念絵画館壁画「大政奉還」。パブリックドメイン

 10月14日の大政奉還の翌日に勅許が下りた後、朝廷側は新体制の準備として諸侯会議を招集。松平春嶽(越前)、島津久光(薩摩)、徳川慶勝(尾張)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)、浅野茂勲(芸州)、鍋島直正(肥前)、池田茂政(慶喜の弟・備前)ら諸藩のトップに上洛(京都へ来ること)を命じました。

 この時点では慶喜はまだ征夷大将軍の職にあり、新体制が発足するまでは幕府が引き続き国内政治を行うことになっていました。しかし倒幕派は、このまま諸侯会議が開かれれば慶喜支持派が多数を占め、再び慶喜中心の政権が誕生してしまうことを恐れ、政変(クーデター)を計画します。

 倒幕派は、慶喜が列強外交団に約束していた「慶応3年(1867)12月7日の兵庫開港」が行われれば、慶喜の復権が内外に印象付けられてしまうと考え、開港の直前直後に政変を起こそうと考えました。そのため、当初は開港翌日の12月8日に予定されていましたが、最終的には12月9日に決行されることが決定します。これが「王政復古の大号令」へとつながるのです。

 大久保利通らは慶喜側が軍事行動に出ることを警戒していましたが、慶喜は政変の3日前に松平春嶽からこの計画を知らされていたにもかかわらず、なぜか阻止するための行動を一切起こさなかったといわれています。

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王政復古の大号令

 慶応3年(1867)12月8日の夕方から翌朝にかけ、摂政・二条斉敬の主催による最後の朝議(朝廷の会議)が開かれました。

 ここでは、長州藩主・毛利敬親(たかちか)や広封(ひろあつ)父子の官位復旧、岩倉具視ら勅勘(天皇からの咎め)を被っていた堂上公卿の赦免、そして「七卿落ち」で京都を追われていた三条実美(さねとみ)らの赦免が決定されました。

 そして翌12月9日、薩摩藩など5藩の兵が御所の門を封鎖して親幕府派の皇族や公家の参内を禁止。その厳戒態勢の中、たった今赦免されたばかりの岩倉らが、明治天皇が出御した御所内の御学問所(おがくもんじょ)に集まり、ここで「王政復古の大号令」を発布し、新たに置かれる「三職(さんしょく)」の人事を定めて、新政府の樹立を宣言しました。

 この「王政復古の大号令」は、12月14日に諸大名へ、16日には一般庶民に向けて広く布告されました。その主な内容は、以下のとおり。

  • 徳川慶喜の将軍職辞職を正式に認め、幕府を完全に廃止
  • 京都守護職や京都所司代の廃止
  • 摂政・関白職を廃止、新たに総裁(そうさい)、議定(ぎじょう)、参与(さんよ)の三職を設置

 つまり、これは天皇親政(天皇自らが政治を行うこと)の名を借りた、一部の公家と、薩摩・越前・土佐・芸州広島・尾張・長州の有力藩が主導する「新政府樹立のクーデター」だったのです。

 なお、最高職である「総裁」には有栖川宮熾仁(たるひと)親王が就任。「議定」には、仁和寺宮嘉彰親王(のちの小松宮彰仁親王)、明治天皇の外祖父である中山忠能、そして松平春嶽、山内容堂、島津茂久(薩摩藩主)、徳川慶勝、浅野茂勲ら10人が任命されました。

 「参与」には、公家の岩倉具視や大原重徳、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の後藤象二郎、越前の中根雪江ら20人が名を連ねました。(※この三職制度は翌年廃止され、太政官制度へと移行します)。

 そして、この新体制のメンバーが最初に顔を合わせた緊迫の会議こそが、「小御所会議」だったのです。

小御所会議

 最初の三職会議は、「王政復古の大号令」が発せられた当日である12月9日の夕刻から、御所内の「小御所」にて、明治天皇臨席のもとで開かれました。当時の慣例として、こうした重要な会議は夕方に開かれるものだったそうです。

 この会議の主な目的は、前将軍・慶喜の処遇として「辞官納地(じかんのうちち)」、すなわち官位を辞退させ、旧幕府領の領地を新政府に返上させる(実質的に無力化する)ことを決定することでした。しかし、山内容堂や松平春嶽らは、慶喜も含めた諸侯会議による平和的な国家再編を望んでいたため、この会議に慶喜が招かれていないことを激しく非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の開催を主張しました。

 ここでよく知られているのが、容堂が「幼少の天皇を擁して、一部の公家が陰謀を企てている」と詰め寄ったところ、岩倉が「天皇が幼いとは何事か!」と容堂の失言を一喝し、容堂が黙り込んだことで徳川家の「辞官納地」が決定した、という有名なエピソードです。

 しかし、容堂が慶喜の出席を求めて激しい議論を展開したことは史料で確認できるものの、岩倉が容堂を一喝したという話は、同時代の史料には見当たりません。明治39年(1906)に完成した『岩倉公実記』が初出であるため、後世の創作ではないかとも言われています。

 一方で、会議に出席していた薩摩藩士・岩下方平(みちひら)が残した興味深い逸話があります。会議の休憩時、岩倉が西郷隆盛にどうすべきか助言を求めたところ、西郷は「匕首(あいくち:短刀)があるのみ(話がまとまらないなら力ずくで決めるまでだ)」と言い放つと、岩倉が「御所での流血はご法度だ」となだめたというものです。

 この話は、すぐに芸州藩士から土佐藩士を経て、山内容堂の耳へと伝わりました。そのため、休憩後に再開された会議では容堂は完全に沈黙…。西郷隆盛の温厚なイメージを覆すような、なんとも鬼気迫る雰囲気が伝わりますが、会議後、松平春嶽が二条城に行って慶喜に『辞官納地』を伝えると、慶喜はあっさりと受け入れました。

 慶喜は、怒り心頭で今にも暴発しそうな自身の家臣(幕臣)たちを宥め、無用な衝突を避けるために二条城を引き払い、大坂城へと退去していったのです。

おわりに

 その後、大坂城に入った慶喜は、自らを再び「上様」と宣言し、征夷大将軍が廃止された後も旧幕府機構のトップとして権力を保持し続ける意向を仄めかしました。京都では、薩長の強硬な姿勢に動揺した数藩が、御所の護衛辞退を申し出るなど、の動きがありました。

 さらに慶喜は、列強の外交団と会見し、「日本の内政不干渉」と「外交権は依然として旧幕府が保持していること」を承認させました。19日には朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を公然と要求し、朝廷側も一時はこれに妥協する姿勢を見せるなど、王政復古の大号令は一時、有名無実化しかけていたのです。

 しかし、新政府側の巻き返しを狙う薩摩藩が江戸で挑発行為を働き、これに激怒した旧幕府側の強硬派がついに爆発。「鳥羽・伏見の戦い」へと突入します。結果として薩長軍が「官軍(正義の軍)」となり、幕府軍は「朝敵(賊軍)」の烙印を押されることとなりました。

 これらの一連の流れを辿ると、高度な政治的駆け引きと、薩摩藩による凄まじい暗躍ぶりに驚かされますが、同時に旧幕府にまったく勝ち目がなかったわけでもない気もします。

 慶喜は後年、大坂城で老中たちに向かって問い、断言したといいます。

慶喜:「幕府の中に、西郷や大久保のような優秀な人材はいるか」

老中ら:「おりません」

慶喜:「だから戦をしても勝てないのだ」

と断言したといいます。

 また、次のような主旨の感想も残しています。

「長州藩は最初から一貫して倒幕路線だったが、薩摩藩は会津と同盟したかと思えば長州と同盟するなど、手段を選ばない暗躍ぶりが許せない」

 他の歴史的足跡を見ても、慶喜自身は具体的な近代的政権構想を持っており、政治への意欲も満々だったと言えるでしょう。彼の有能さを考えると、もし慶喜が議定に入った新体制なら明治以降の日本はどうなっていったのか、見て見たかった気がします。

【参考文献】
《 編集部ピックアップ 》

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  この記事を書いた人
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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