【豊臣兄弟!】織田信長死す!『武功夜話』に記された羽柴秀吉の驚くべき「中国大返し」とは?
- 2026/07/20
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第28回は「急げ!秀吉」。天正10年(1582)6月2日、織田信長は天下統一目前というところまで来て、家臣の明智光秀に叛かれ、京都本能寺で自刃します。
『武功夜話』(尾張国の土豪・前野家の動向を記した覚書集成、家譜の一種。偽書説あり)によると、備中国にて毛利方と対峙していた羽柴秀吉に「信長死す」の知らせが舞い込んだ時、秀吉は大いに「悲嘆」したとのこと。しかし悲嘆しつつも、同書には秀吉がすぐに次なる手を打っていることが書かれています。
その一手というのは対決していた毛利方と至急、和議を結ぶことでした。備中国から軍勢を撤退させるという申し合わせをしたのです。秀吉は急ぎ備中から退き、光秀討伐に向かわねばなりません。「退陣」の殿(しんがり)となったのは同書によると秀吉の弟「小一郎」(秀長)でした。大軍の撤退ということで、岡山からは軍勢を2つに分けて「二つの道」で退いていったということです。これは秀吉の「御下知」(御命令)でした。岡山の宇喜多の所を発した秀吉は沼(岡山市)に到着すると「早船」の用意を命じます。これより先は険路であり味方の軍勢で混雑する。よって早船を仕立てて、早期に姫路に向かおうというのです。
秀吉は入間から乗船したと同書にはありますが、それに従うは蜂須賀小六・生駒甚助の他は御馬廻の者16名のみ。人目を憚っての出立であったので、家中で秀吉の乗船を知る者は少なかったとあります。秀吉は船に乗り、6月6日午後4時頃に赤穂岬に到着しました。
このように『武功夜話』には、秀吉が途中から船で「中国大返し」を行ったことが記されているのです。しかし実際には、秀吉は陸路で「中国大返し」を行っており、同書の説は特異なものと言えるでしょう。




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