「浅井久政」弱腰外交による暗愚のイメージも、近年は民政家として再評価か?
- 2026/03/20
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果たして彼は、本当に評価に値しない人物だったのでしょうか。その波乱に満ちた生涯と、近年注目されている行政手腕から、彼の実像を紐解いていきます。
久政の家督相続
久政は、大永6年(1526)、北近江の戦国大名・浅井亮政と側室である尼子氏(寿松馨庵)との間に生まれました。幼名は猿夜叉、通称を新九郎といいます。本来、浅井家の後継者は、亮政の正室・蔵屋が産んだ嫡男・政弘となるはずでしたが、彼は早世。代わって、亮政の娘・鶴千代を娶った養子の浅井明政が有力な後継候補となります。実際、亮政は明政を公の場に同席させるなど、彼を後継者として遇していた形跡が残っています。
しかし、天文11年(1542)に亮政が没すると、家督を継いだのは庶子の久政でした。この交代劇の背景には、亮政の妻・蔵屋と久政の母・尼子氏が姉妹のような関係で、強い結束があったと伝えられています。特に尼子氏は、北近江の信仰の拠点である竹生島・宝厳寺との関わりが深く、その宗教的・経済的なバックアップが久政の執政基盤を支えたと考えられます。
一方で、この相続には多分に「政治的力学」が働いていたとも考えられています。
当時の浅井氏は、かつての主家である守護・京極氏や、南近江の覇者・六角氏との間で綱渡りの外交を強いられていました。久政が用いた花押(サイン)が六角氏の影響を強く受けていることから、彼が六角氏の後ろ盾を得て家督を奪取、あるいは承認された可能性が極めて高いのです。実際、天文10年(1541)には主家であるはずの京極高延が、亮政打倒のために挙兵しています。つまり、この時点で既に浅井氏と京極氏は対立関係にあり、六角氏の庇護下にあったということです。
家督継承後、久政を待ち受けていたのは、南から圧力をかける六角定頼・義賢(承禎)父子への徹底した従属です。天文13年(1544)、久政は正室の小野殿を人質として六角氏の拠点・観音寺城下へ送り届けています。翌年、同地で生まれたのが、後の長政(猿夜叉丸)です。嫡男が敵地で誕生したという事実は、当時の浅井氏がいかに深く六角氏の軍門に降っていたかを物語っています。
迷走? 久政の外交術
京極氏との和議、六角氏に反旗
同年8月、京極高延が坂田郡北部へ侵攻し、国友氏や若宮氏といった浅井方の諸勢力を攻めています。久政は長年にわたる対立の末、天文19年(1550)に京極氏と和議を結びました。この頃を境に、久政は「新九郎」から「左兵衛尉」へと改めています。興味深いのは、この頃から久政が頼る相手を六角氏から京極氏へとシフトさせている点です。当時の六角氏では実権が定頼から義賢へと移りつつあり、中央政権を握る三好長慶との対立に忙殺されていました。この隙を突き、京極氏は三好氏と連合して六角氏や細川晴元勢力に対抗。犬上郡や甲良周辺へ攻め入ります。さらに三好家臣・松永久秀が近江へ侵攻すると、六角氏が擁護していた将軍・足利義藤(義輝)を朽木へと追い落とす事態に発展しました。天文21年(1552)に六角定頼が没すると、高延は佐和山城を陥落させる戦果を挙げています。久政もまた京極方に加担し、一時的に六角氏へ反旗を翻したのでした。
敗北と再服従
攻勢を強めていた京極・浅井軍でしたが、天文22年(1553)の六角氏との戦いに敗北。要衝である地頭山が陥落し、3年に及んだ近江国南北の争乱は一旦幕を閉じました。敗れた浅井氏は再び六角氏に服従することとなります。久政の嫡男・猿夜叉(長政)は、六角義賢の偏諱を賜って「賢政」と名乗り、さらに六角家臣・平井定武の娘を妻に迎えることとなりました。その後、六角義賢が三好長慶と和睦し、京都の政情が安定すると、浅井氏は六角氏の軍事行動に従事するようになります。弘治2年(1556)からの伊勢侵攻にも、浅井氏は六角軍の一員として加わりました。この従属期間中、久政は内政面に注力し、13ヶ条からなる徳政を実施するなど、行政能力を発揮しています。
『東浅井郡志』などの記述では、「軍事的な才能に乏しい」「父・亮政のような熱意がない」と手厳しく評される久政ですが、一方で行政面での評価は決して低くありません。特に農民にとって極めて重要な「用水」に関する裁定においては、民意を尊重しており、現代ではこうした実務的な行政手腕が再評価の対象となっています。
久政の隠居と最期
京極氏と六角氏の間で主君を変える久政の処世術は、家名を維持するための苦肉の策でしたが、血気盛んな家臣(北近江の国衆)たちには「煮え切らない態度」として映っていたようです。
永禄2年(1559)、15歳で元服した嫡男・長政が頭角を現すと、久政を見限り、長政に期待を寄せる国衆が急増します。長政もまた彼らの期待に応えるかのように、六角家臣の娘である平井氏と離別。名を「賢政」から浅井家伝来の「新九郎」へと戻し、六角氏との決別を鮮明に打ち出しました。
『江濃記』によれば、磯野員昌を中心に、赤尾氏、丁野氏、百々氏、遠藤氏、安養寺氏といった有力国衆の合議によって、久政の隠居と浅井氏の自立が決定したとあります。もともと国人一揆をまとめて存在感を高めてきた浅井氏にとって、国衆たちの意向は当主の座をも左右する重いものだったのでしょう。
永禄3年(1560)8月、野良田の戦いで長政が六角勢を破ると、その結果を見届けるかのように、同年10月(諸説あり)に久政は隠居を決意しました。隠居先は小谷城の「小丸」でしたが、その後も浅井氏の意思決定において、一定の発言力を持ち続けていたと考えられます。
そして隠居後の久政を待ち受けていたのは、織田信長との対立でした。長政は信長の妹・お市の方を正室に迎え、一度は織田氏と同盟を結ぶものの、元亀元年(1570)に信長の朝倉氏討伐に際して同盟を破棄し、その背後を強襲します(金ヶ崎の戦い)。
通説では、久政が朝倉氏との長年の誼を重視し、長政が父の意向に逆らえず裏切りを決断したとされています。しかし、亮政の時代には六角氏と朝倉氏が共謀して北近江を攻めた記録もあり、両家の関係が常に密接だったとは言い切れない側面があります。信長を裏切った真相については、いまだ多くの議論の余地を残しています。
その後も姉川の戦い(1570)など、浅井氏は朝倉氏と連携して信長との戦いに身を投じますが、天正元年(1573)にはついに朝倉氏が滅ぼされ、まもなく小谷城も織田軍に包囲されてしまいます。羽柴秀吉の奇襲によって京極丸が陥落し、久政が守る小丸と長政の本丸は分断されました(小谷城の戦い)。
最期を悟った久政は、家臣たちが防戦に努める中、訣別の宴を執り行います。戦国の世を生き抜いた意地を示すかのように、落ち着いて盃を交わした後に切腹。介錯は浅井惟安が務めました。
『信長公記』によれば、久政と長政の首は京市中引き回しの後、獄門にさらされ、「箔濃(はくだみ)」にされて長く保存され、翌年の岐阜城での宴席で酒器として用いられたと伝わっています。
おわりに
信長を裏切るよう差し向け、浅井氏を滅亡へと導いた「暗愚の将」とされることの多い久政。しかし、その実像は単なる無能な指導者とは異なります。派手な武功こそ少ないものの、強大な六角氏という脅威に対し、時には屈辱に耐えて服従し、時には機を見て反旗を翻すことで、小領主である浅井氏を存続させてきたのは紛れもない事実です。また、内政において民意を汲み取る冷静な判断力を備えていた点は、領主として高く評価されるべき側面でしょう。
激動の時代、巨大な勢力の間で板挟みになりながらも、家名を守り抜こうとした久政。彼への「暗愚」という評価は、もしかすると、後の結果から導き出された一面的な見方に過ぎないのかもしれません。



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