家康:「何か食い物はないか?」伊賀越えの極限状態でなりふり構わぬサバイバル飯
- 2026/07/16
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徳川家康の三大危機と言えば「三河一向一揆」「三方ヶ原の合戦」そして「伊賀越(いがごえ)」
「伊賀越」とは京都を外遊中だった家康が、生命からがら本拠地の三河まで逃げ帰った道中を指し、特に難所だった伊賀(三重県北西部)を冠しています。
身なりはボロボロ、腹はペコペコ、そしていつ落ち武者狩りに襲われるか分かりません。そんな極限状況で家康たちは何をむさぼり食ったのでしょうか。『徳川実紀』にその一部が記されていたので、紹介したいと思います。
「伊賀越」とは京都を外遊中だった家康が、生命からがら本拠地の三河まで逃げ帰った道中を指し、特に難所だった伊賀(三重県北西部)を冠しています。
身なりはボロボロ、腹はペコペコ、そしていつ落ち武者狩りに襲われるか分かりません。そんな極限状況で家康たちは何をむさぼり食ったのでしょうか。『徳川実紀』にその一部が記されていたので、紹介したいと思います。
手づかみで赤飯をむさぼり食う
……江州信楽に至らせ給へば。土人木戸を閉て往来を止めたり。此地の代官多羅尾四郎光俊はこれも秀一が舊知なれば。秀一その旨いひやりしに。光俊すみやかに木戸をひらかせ。御駕を己が家にむかへ入奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに。君臣とも誠に飢にせまりし折なれば。箸をも待ず手づからめし上られしとぞ。……
京都を出発した家康たちは、近江国信楽(滋賀県甲賀市)までやってきました。
この一帯は土豪の勢力が強く、それぞれが勝手に関所を設け、街道を封鎖しています。中でも勢力を誇っていたのが代官の多羅尾光俊(たらお みつとし)。織田政権の代官でありながら山賊まがいのことにも手を出していました。
さぁ困った……と思ったところ、信長からつけられていた案内役の長谷川秀一(ひでかず)。彼は多羅尾光俊と旧知だった伝手で、門を開いて歓迎されます。
「まったく道中は難儀でしたな。さぁ、赤飯が炊けましたぞ」
もてなしを受けた家康たちは、箸が出されるのも待ち切れずに赤飯を手づかみでむさぼり食いました。よほど腹が減っていたのでしょうね。
船頭からせびった雑穀飯と蜷の塩辛
……伊賀の地士及甲賀の者ども。御路の案内し奉り。鹿伏兎越をへて勢州に至らせ給ひ。白子浦より御船にめして三州大濱の浦に着せ給ふ。船中にて飯はなきかと尋給へば。船子己が食料に備置し粟黍米の三しなを一つにかしぎし飯を。つねに用ゆる椀に盛て献る。菜はなきかと尋給へば。蜷の塩辛を進む。風味よしとて三聞しめす。……
伊賀・甲賀の者たちが道案内をしてくれたので、何とか伊勢の海に出ることができました。ここまで来れば、後は三河まで海路を一気に進むだけです。
「あぁ良かった……安心したら腹が減ってきたな。おい船頭、何か食い物はないか?」
家康に飯をたかられた船頭は、自分の弁当に持参していた雑穀飯を提供しました。アワ・キビ・米を混ぜて炊いたとのことです。
「これだけでは味がないのう。何かオカズはないのか?」
せびられた船頭は、仕方なく蜷(にな。巻き貝)の塩辛を出しました。
「あるなら先に出せばよいものを……まぁよい。お、美味いなこれは!」
かねて空腹だったこともあり、家康は塩辛雑穀メシを三杯も平らげたということです。
領民たちから恵んでもらった「麦えまし」
……御船大濱に着ければ。長田平左衛門重元をのが家にむかへ奉り。こゝに一宿したまひ明る日岡崎へ御帰城ましましける。抑この度君臣共に思はざる大厄にあひ数日の艱苦をかさね。からうじて十死をいでゝ一生を得させ給ひしは。さりとは天幸のおはします事よと。御家人ばら待迎へ奉りて悲喜の泪を催せしとぞ……
果たして三河へたどり着いた家康一行ですが、浅間神社(愛知県碧南市)のあたりで又しても空腹に襲われました。
仕方なく家臣の井伊直政が方々の村落を訪ねて回り、食べ物を恵んでもらいます。苦労の末、何とか掻き集めたのが「麦えまし」。これは単に麦飯(むぎめし)の訛りとも、あるいは麦でかさ増しした「麦え増し(え、は強調語)」とも言われているようです(諸説あり)。
どのみち麦飯もしくは麦粥ですが、貧しい領民たちが糊口をしのぐための貴重な食糧には変わりません。献上された「麦えまし」を平らげた家康は無事に岡崎城へ帰還。貴重な食糧を恵んでくれた領民たちに、山のような米俵を贈ったということです。
このエピソードは『徳川実紀』に記録はなく、郷土の伝承として残っていました。多羅尾光俊や船頭たちにも、御礼をしたのでしょうか。
終わりに
今回は伊賀越で徳川家康がむさぼり食った料理について紹介してきました。- 赤飯(手づかみ食い)など
- 雑穀飯と蜷の塩辛(船頭からたかる)
- 麦えまし(領民から恵んでもらう)
こうして見ると、先へ進むにつれて食事がグレードダウンし、最後はロクに味つけもなさそうな「麦えまし」を掻っ込んでいます。最早なりふりなど構っていられなかったのでしょうね。ともあれ伊賀越を生き延びた家康は、紆余曲折を経て天下人となるのですが、それはまた別の機会に紹介したいと思います。




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