二兵衛だけじゃない!戦国時代に活躍した軍配者たちをご紹介!

  • 2026/06/24
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 戦国時代に活躍した軍師と言えば、豊臣秀吉の天下獲りを支えた竹中半兵衛と黒田官兵衛のいわゆる「二兵衛」が有名ですね。他にも武田信玄に仕えた山本勘助や上杉謙信の傍らにあった宇佐美定行など、数々の人材が軍略を巡らせました。

 しかし彼らの事績は、その多くが江戸時代以降の軍記物語によるところが大きく、実態についてはよく分かっていません。そもそも軍師という役職自体が存在せず、軍配者と呼ばれる者たちが陣中にあって重きをなしていました。

 今回は戦国時代に活躍した軍配者たちをご紹介。どんな人物がいたのでしょうか。

そもそも軍配者とは?

 戦場における軍事行動の計画立案する者を「軍配者」と言いました。その決定には天文や地学、気象や方位を重視しており、ざっくり言えば占いですね。

 占星術や陰陽道など、古人の知恵によるところもあった一方で、非合理的な縁起担ぎの要素も多分に含まれていました。とは言え、当時においてはそれが最先端の科学であったとも言えるでしょう。合戦の日取りや進軍ルート、将兵の配置や人選などが独自の理論によって決定されていたのです。

 ちなみに軍事学としての兵法が日本へもたらされたのは奈良時代(8世紀)。中国古典として有名な『孫子』『呉子』『六韜(りくとう)』『三略』などがもたらされ、やがて室町時代(14~15世紀)に入ると『兵法秘術一巻書』や『訓閲集(きんえつしゅう)』など、日本独自の兵法も生み出されていきました。そして戦国乱世に突入すると、各家で様々な軍配者たちが活躍するようになったのです。

小笠原源与斎(甲斐・武田氏)

 『甲陽軍鑑』によると、甲斐国の武田氏には小笠原源与斎(おがさわら げんよさい。生没年不詳)なる軍配者がいました。

 苗字から信濃国守護大名・小笠原氏の親類縁者でしょうか。あるいは信濃国出身というだけで、詐称した可能性も考えられます。具体的な活動や出陣記録は残されておらず、実在したのかすら定かではありません。

 この源与斎は数々の奇特を行ったと言われ、例えばこんなことをしました。

一、自分を湯屋に閉じ込めさせ、完全な密室から抜け出します。
一、夜の会合で「向かいの山に火を起こす」と宣言すると、その通りに火が立ちました。

……など。

 奇特とは奇跡の意味ですが、要するに奇術使いだったのでしょう。いかにも胡散臭い感じですが、ある種の神秘性から重んじられたものと思われます。

角隈石宗(豊後・大友氏)

 『大友記』などによると、角隈石宗(つのくま せきそう)という軍配者がいました。石宗は大友家二代(大友義鑑・大友宗麟)に仕え、気象学や天文学、易学などに通じていたそうです。

 時は天正6年(1578)、大友宗麟が島津氏との決戦に臨むため、出陣を決意しました。これが後世に伝わる耳川合戦ですが、石宗は凶運のため出陣に反対したと言います。しかし宗麟は石宗の諫言を無視して出陣。死を覚悟した石宗は軍配学の秘伝書を焼き捨て、耳川で多くの重臣たちと共に討ち死にしたのでした。

 なお、石宗の軍配秘伝は戸次鎮連(べっき しげつら)に受け継がれたそうです。

根来金石斎(相模・北条氏)

 『相州兵乱記』によると、小田原北条氏には、根来金石斎(ねごろ きんせきさい)という軍配者が仕えていました。苗字から連想されるとおり、紀伊国根来(和歌山県岩出市)からの流れ者で、北条氏に鉄砲をもたらしたと言われています。

 この金石斎は、北条家の重臣らが「足利義明(あしかが よしあき。小弓公方)と戦うべきか和すべきか」と協議していた時、以下のとおり献言しました。

金石斎:「戦うべきと考えます。なぜなら彼は武勇に慢心して天道を畏れぬ(軍配学を無視した)戦いをしており、遠からず滅亡するからです」

 この予言が的中して天文7年(1538)の第一次国府台合戦で北条氏は義明を滅ぼしたのでした。

白井浄三(相模・北条氏)

 『北条記』には、北条氏の軍配者として白井入道浄三(しらいにゅうどう じょうさん)という人物が登場します。

 永禄7年(1564)に越後の上杉謙信が関東へ侵攻してきた際、白井入道は下総国臼井城(千葉県佐倉市)に立て籠もりました。上杉謙信は城内から敵が出撃しないことを訝しみ、誰か挑発がてら攻めてみるよう命じます。すると上杉家臣の本庄某が進み出て言いました。

本庄某:「城中には軍配の名人である白井入道が籠もっております。ご用心ください」

本庄某:「また今日は千悔日(せんかいび)という悪日なので、北条勢は攻めて来ないのでしょう」

 下手に動けば千度悔やんでも取り返しがつかない……果たしてその日、山崩れが起きて上杉勢の人馬が死傷したということです。

軍配には例外も

 ここまで紹介してきたように、軍配者は戦場において大きな影響を与えてきました。しかし例外も少なからずあったようで、例えば越前の朝倉孝景(あさくら たかかげ)は教訓集「朝倉孝景条々」において、吉日にこだわり過ぎて好機を逃さぬよう戒めています。

 また『川角太閤記』では、祈祷師から「すぐに上洛するのは日取りが悪いから、吉日を待った方がよい」と進言されたのに対して、羽柴秀吉は「好機を逃してはならぬ」と中国大返しを断行しました。

 他にも扇の面によって日の吉凶を裏返す方法(昼は三日月の面を用い、夜は日ノ丸の面を用いる)もあったそうです。要するにある程度は、人間の都合で融通が利かせられたということでしょう。

終わりに

 今回は戦国時代に活躍した軍配者たちを紹介してきました。

 果たして現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、竹中半兵衛や黒田官兵衛の他にも軍師や軍配者は登場するのでしょうか。彼らが知略の限りを尽くし、戦国乱世を切り拓いていく活躍に期待しています。

【参考文献】
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  この記事を書いた人
鎌倉の最果てに棲む、歴史好きのフリーライター。時代の片隅に息づく人々の営みに強く興味があります。 得意ジャンル:日本史・不動産・民俗学・自動車など。 執筆依頼はお気軽にどうぞ!

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