本能寺の変「朝廷黒幕説」を史料から紐解く 信長と正親町天皇の本当の関係

  • 2026/05/28
:歴史学者
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注目された“朝廷黒幕説”

 「本能寺の変の黒幕は朝廷だった」――。

 こうした“朝廷黒幕説”は、長年にわたり多くの人々の関心を集めてきた。その根拠としてしばしば語られるのが、「織田信長が正親町天皇に譲位を迫り、朝廷を圧迫した」という説である。危機感を抱いた朝廷が、明智光秀を動かして信長を討たせた、というわけだ。

 しかし、近年の研究では、この通説そのものが大きく揺らいでいる。実際の史料を丁寧に読み解くと、信長は正親町天皇を脅したどころか、むしろ朝廷の悲願実現に協力しようとしていた可能性が高いのである。

 果たして、信長は本当に「天皇を圧迫した危険人物」だったのか。正親町天皇の譲位問題から、本能寺の変をめぐる歴史の真相に迫ってみたい。

「信長が譲位を強要した」のは本当か

 信長による正親町天皇への譲位問題については、古くから正反対の評価が存在してきた。

①信長は譲位を迫り、朝廷を圧迫した。
②信長は譲位を支援し、朝廷に尽くそうとした。

 ①の立場では、信長と朝廷は深刻に対立していたことになる。その延長線上に、「朝廷が背後で明智光秀を操り、本能寺の変を引き起こした」という朝廷黒幕説が位置づけられてきた。

 一方、②の立場では、信長は朝廷再興を助けようとしていたことになる。つまり、信長と朝廷は対立関係ではなく、むしろ協調関係だったという理解だ。では、実際の史料はどちらを示しているのだろうか。

正親町天皇は譲位を「歓迎」していた

 天正元年(1573)12月3日、信長は正親町天皇に譲位を行うよう申し入れた(『孝親公記』)。この申し出を受けた正親町天皇は、関白・二条晴良に対し、譲位の時期について勅書を出している。つまり、拒絶どころか、前向きに話を進めようとしていたのである。

 さらに晴良は、信長の宿所を訪れ、家臣の林秀貞に譲位実施の意向を伝えた。これに対し、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と答えたのである。

 ここからも、信長側が譲位実現へ向けて具体的に動いていたことがうかがえる。しかも朝廷側は、譲位と即位に備え、礼服や儀式道具の風干(陰干し)まで始めていた(『御湯殿上日記』)。朝廷が本気で譲位を準備していたことは疑いない。

なぜ戦国時代の天皇は譲位できなかったのか

 そもそも、なぜ譲位問題がそれほど重要だったのだろうか。戦国時代、朝廷は深刻な財政難に苦しんでいた。応仁・文明の乱以降、即位式や大嘗祭を行う費用すら不足する状態が続いたのである。

 後柏原天皇、後奈良天皇の時代には、即位後すぐに即位式を行えない異常事態まで起きていた。朝廷儀式の多くが中断されることになり、天皇は慢性的な資金不足に悩まされていたのである。

 後奈良天皇は、自筆の書を売ったり、献金した大名に官位を与えたりして、何とか財政を維持していたほどだった。そのため、譲位は単なる「世代交代」ではない。新天皇の即位式や大嘗祭を実施するためには、莫大な費用が必要だったのである。

 本来、それを支えるべき室町幕府はすでに有名無実化しており、資金援助を期待することができなかった。朝廷にとって、資金援助を申し出る信長の存在は極めて大きかったといえよう。

実は「上皇になれない」ことが屈辱だった

 現代では「院政」と聞くと、権力闘争のイメージを持つ人も多い。しかし、中世から近世にかけては、天皇が譲位して上皇となり、院政を行うのはごく普通のことだった。ところが戦国期には、財政難のため譲位そのものが困難になっていた。

 後柏原天皇や後奈良天皇は、生前に譲位できず、現役天皇のまま崩御している。これは当時としては極めて異例であり、朝廷にとって大きな問題だった。こうした事情を踏まえると、正親町天皇が譲位実現を望んでいた理由も理解できる。

 実際、正親町天皇は「東山御文庫所蔵文書」の中で、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現しなかった。譲位が実現すれば、朝家再興の時が到来したと思う」と述べている。

 これは、譲位を「圧迫」と感じていたどころか、むしろ悲願達成として歓迎していたことを示している。

信長は朝廷を脅したのか

 このように譲位の話は進んでいったが、最終的には信長存命中に実現することがなかった。だが、その理由は朝廷との対立ではなく、むしろ政治・軍事情勢の悪化にあったと考えられる。

 天正元年(1573)に足利義昭と決裂した後、信長包囲網が形成され、信長は各地への出兵対応に追われた。莫大な軍事費が必要となり、譲位関連費用まで手が回らなかった可能性が高い。

 改めて結論を述べると、関係する史料を見る限り、信長は正親町天皇に譲位を「強要」したのではない。むしろ、長年実現できなかった朝廷の願いを後押ししようとしていたことが明らかである。

 現在では、「信長が譲位問題を利用して天皇を圧迫した」「朝廷と信長は対立していた」とする従来説は、おおむね否定されつつある。少なくとも、譲位問題を理由に「朝廷が本能寺の変を仕組んだ」とする説は、史料的根拠が極めて弱いと言わざるを得ないだろう。

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  この記事を書いた人
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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