【豊臣兄弟!】本能寺の変勃発!しかし『太閤記』に描かれた秀吉と毛利方のお人好し過ぎる対応とは?
- 2026/07/27
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大河ドラマ「豊臣兄弟!」第29回は「天下への道」。天正10年(1582)6月2日、織田信長は京都本能寺において重臣・明智光秀により討たれます。
江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した豊臣秀吉の伝記『太閤記』には、「信長死す」との報は、6月3日の深夜12時頃に中国征伐の最中の羽柴秀吉に届いたとあります。京都の町衆で織田家臣でもあった長谷川宗仁(茶人としても著名)が飛脚をもって秀吉に「信長・信忠父子が光秀により攻められて切腹。急ぎ上京し光秀を討たれよ」と知らせたのでした。主君・信長の突然の死を聞いた秀吉は大いに泣いたと同書にはあります。
しかし翌日(4日)の朝には何事もなかったかのように、陣中を見廻ったのでした。秀吉方の平然とした態度に敵対していた毛利輝元は使者を遣わし「降参」を申し出たと言います。秀吉は翌5日の朝に返事をすると伝え、その日は毛利方の使者を帰しました。
5日になると、毛利方の小早川と吉川氏の使者がやって来ます。『太閤記』によると秀吉はここに至って、驚くべき行動に出ます。(物事は隠そうとすれば露見するもの。これ以上、亡君のことを隠すべきではない)と考えて、何と「信長公が今月2日に光秀の謀反により京都において殺害された」ことを伝えてしまうのです。毛利方の使者は立ち返り、小早川・吉川を通して毛利輝元にこの旨を伝えます。当然「これぞ、天が与えた幸運。秀吉勢を打ち破るべし」との意見も家臣より出されました。
議論は紛糾しますが、小早川隆景の「我々が秀吉軍を追撃した場合、今後、もし秀吉が光秀を攻め滅ぼしたら手痛いしっぺ返しを喰らう。秀吉は文武両道の達人である。秀吉に勝つことはできない」などの見解に輝元も賛同し、ついに毛利方は撤兵する秀吉軍を追撃することはありませんでした。『太閤記』において秀吉も毛利方もかなりの「お人好し」に描かれています。





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