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  • 明智光秀
 2019/03/27

明智光秀の母「牧」の生涯とは ~大河「麒麟がくる」で配役は石川さゆりさんに決定!

『絵本太閤記』八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図
『絵本太閤記』八上の城兵、光秀の老母を斬罪にする図

本能寺の変の動機のひとつといわれているのが、光秀の母の死です。光秀の母(於牧の方とされる)は、丹波攻略の終盤で人質になり、信長の裏切りによって磔にされたと伝わっています。

大河ドラマ「麒麟がくる」では演歌歌手の石川さゆりが演じることが決まり、キャラクターは「光秀が幼少時に死んだ父の代わりに「武士としての心構え」を諭す厳しくも心優しき母」とのことですが、実際の於牧の方の人物像はあまりよくわかっていません。本稿では彼女の実像に迫ってみます。
(文=東 滋実)

光秀の母の出自

明智光秀の母については、生没年もよくわかっていません。光秀の父の名も系図によってバラバラなので、母についての史料が少ないのも仕方のないことでしょう。

於牧の方

通説では母の名は「牧」。お牧とか、於牧の方といったりします。この人は若狭武田氏の出身とされており、「鈴木叢書」十三所収の「明智系図」をみると、光秀の父・光隆の名前の下に「妻武田義統妹」とあります。義統は若狭国守護・若狭武田氏の8代当主です。

明智光綱の妹説

光秀の出自の記事でも少し触れていますが、「明智氏一族宮城家相伝系図書」には光秀の実母は明智光綱の妹(父は進士信周)とする記述があります。

光綱の妹は進士に嫁いでいたものの、兄の光綱が病弱で子ができず、そのため子の光秀が光綱の養子になった、と記されています。この場合、於牧の方とは別人と見ることができるでしょう。

丹波攻略の八上城攻めで「人質」のち「磔」

光秀の母に関して唯一といっていい逸話が、八上城攻めの際に磔となったエピソードです。これが記されているのが、遠山信春が書いた軍記物『総見記(そうけんき)』(『織田軍記』、『織田治世記』とも)。

光秀の丹波攻略は5年以上かかっています。その大仕事の最初と最後に関わっているのが八上城を本拠地とする波多野秀治なのですが、当初波多野秀治は光秀の軍の一員として動いていました。それが黒井城攻めに際して突如裏切り、光秀は敗走。かなり厄介な存在だったわけです。

それが丹波攻略も終盤になり、天正7年(1579年)5月18日に八上城攻めで再び波多野氏と対峙することに。またもや波多野秀治らの三兄弟の激しい抵抗により戦は長引きます。

そこで光秀は和議を申し入れ、「信長に従うのであれば本領と地位は安堵しよう。その証として母を差し出そう」と、光秀の母は八上城へ送られました。

それと入れ替わるようにして、波多野兄弟は和議のために光秀によって安土へ送られたのですが、信長は約束を破って波多野三兄弟を磔に処してしまいます。これを知った八上城の波多野の家臣らは激怒し、人質の光秀の母を磔にして殺害。光秀はこの件の復讐のため数年後に本能寺の変を起こしたのだ、というのが『総見記』の内容です。

同じ内容が記された江戸時代中期の逸話集『常山紀談(じょうざんきだん)』には、母を人質に差し出したのは光秀の謀略であったと書かれています。

つまり母が処刑されるのは織り込み済みだったということ。それが事実だとするなら、よく知られる常識人で愛妻家という光秀像からは想像できない冷酷さを備えていたのでしょうか。

光秀母は本当に磔にされたのか?

『総見記』の逸話は、この母の死を本能寺の変の動機として結論付けています。

光秀の母が人質になっていると知りつつ、信長が波多野三兄弟を処刑したというなら恨みに思われても仕方ないように思われますが……。そもそも母が磔になったという逸話は史実なのでしょうか?

本能寺の変と母の命日は同じ日か

母を見殺しにされた恨みで光秀が謀反を起こした…。これを補強する根拠が本能寺の変の日付です。

本能寺の変は天正10年(1582年)6月2日の未明ごろ。実は光秀の母が磔になった日も同じ6月2日だったと言われているのです。

しかし、『信長公記』には波多野三兄弟が安土に護送されて処刑されたのは6月4日だと記されています。

「六月四日、安土へ進上。則、慈恩寺町末に三人の者張付に懸けさせられ、さすが思切りて、前後神妙の由候」(『信長公記』巻十二)

光秀の母が処刑されるのは波多野三兄弟の処刑が八上城に知らされてからのはずなので、母の死は6月4日以降となります。これで「母の命日に謀反を起こした」説は揺らいでしまいますね。

『信長公記』に記述はない

『信長公記』の内容に触れましたが、そもそも光秀の母の話は『信長公記』には何も書かれていません。前後の記事にも記述はありません。むしろ、『信長公記』の記述から見えてくるのは、人質の差し出しなど不要だったのではないか、ということです。

「籠城の者既に餓死に及び、初めは草木の葉を食とし、後には牛馬を食し、了簡尽果無体に罷出候を悉く切捨」(『信長公記』巻十二)

八上城で籠城する兵の中には、すでに餓死するような者もおり、最初はその辺に生えている草木を食べて飢えをしのぎ、後には牛馬を食べ、耐えきれなくなると計画もなく無理やり出撃し、明智軍はそれをことごとく切り捨てた、というのです。

これでは放っておいても波多野が自滅するのは時間の問題。光秀があえて母を人質に差し出す必要などありません。

このことから、谷口克広氏は『検証 本能寺の変』の中で、「戦国らしく悲惨な、読者に訴えるストーリーなので、小説などではよく取り上げられているが、事実でないことははっきりしている」と断言しています。

『総見記』のこのエピソードは読んでいておもしろいものではありますが、成立は江戸時代に入ってからで歴史書としては信憑性がない。これを本能寺の変の動機と考える研究者はいない、とのことです。

於牧の方の墓があるものの

於牧の方の墓が岐阜県恵那市明智町にあります。そこには丹波攻略の折に非業の死を遂げた於牧の方の最期が記されており、傍らには「敵は本能寺にあり」というあの有名な言葉が書かれた石碑が立っています。

この言葉は誤謬が多い軍記物の『明智軍記』にある一文(実際に光秀がそう言ったかどうかは不明)なのですが、もしかすると母の死の原因ともども創作なのかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)※文中の引用もこれに拠る。
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
  • 新人物往来社編『明智光秀 野望!本能寺の変』(新人物往来社、2009年)




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