織田信雄――偉大な父の影と波乱の世を生き抜き、信長の血脈を後世へ繋いだ男
- 2026/08/06
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優秀な兄・信忠や数々の英傑たちが歴史の表舞台で散っていくなか、信雄は秀吉や家康といった天下人たちの思惑に翻弄されながらも、巧みな世渡りと執念で織田の家名と血脈を後世へと繋ぎました。時に裏目に出る判断や敗戦から「評価が分かれる武将」として語られがちですが、その生涯を紐解くと、乱世をしなやかに生き抜いたたくましさが見えてきます。
波乱に満ちた織田信雄の足跡をご紹介します。
織田信長の次男、茶筅丸
信雄は永禄元年(1558)、織田信長の次男として生を受けました。母は長男・織田信忠と同じ生駒吉乃(いこまきつの)で、事実上の正室と目されていた女性です。なお、同い年の三男・織田信孝とは異母兄弟にあたります。一説には信孝の方が先に生まれていたものの、母親の身分の違いから信雄が次男、信孝が三男と位置づけられたとも言われています。
信雄の幼名は「茶筅丸(ちゃせんまる)」でした。茶筅とは茶の湯でお茶を点てるときに用いられる道具のことですが、髪を結った形状が茶筅に似ているという理由で名付けられたとされます。
一風変わった名前に思えますが、信長の独特な命名センスのなかでは比較的自然な部類と言えます。長男・信忠の幼名「奇妙丸」(顔立ちが奇妙だったことに由来)、三男・信孝の「三七丸」(3月7日生まれに由来)と比較したら、まっとうな名付けと言えるでしょう。
伊勢国司・北畠家の養子となり、実権を奪い取る
永禄12年(1569)、父・信長は南伊勢へ勢力を拡大するため、代々伊勢国司を務める名家・北畠氏へ侵攻しました。北畠氏の居城である大河内城を8万の大軍で包囲し、講和を成立させます。この時の条件の一つが、信雄を北畠氏の養子とすることでした。「大河内城の戦い(1569年)」伊勢の国司・北畠氏を降す!
12歳で北畠家に入った信雄は、元亀2年(1572)に北畠具教の娘と結婚します。元々家督は具教の息子・具房が継いでいましたが、徐々に信雄が実権を握るようになりました。
信雄が正式に北畠家の家督を譲られたのは天正3年(1575)ですが、この頃には織田家による北畠家の乗っ取りがほぼ完了していました。当主となった信雄は政務に精を出し、官位も正五位下左近衛権中将まで昇進。当主としては順調な滑り出しを見せます。
しかし、北畠家の存在自体を排したい信長は、天正4年(1576)に信雄に北畠一族の粛清を命じます。信雄はその命令に従い、北畠の血筋を徹底的に討ち払いました(三瀬の変)。養子入り以来「北畠」を名乗っていた信雄ですが、北畠家の血脈は事実上、ここで途絶えることとなりました。
伊賀攻めでの失態と挽回
天正3年(1575)に兄・信忠が信長から織田家の家督を継承して以降、信雄ら兄弟は連枝衆として信忠に従いました。信雄は織田軍の主力遊撃軍として、松永討伐戦(1577)、大坂攻めと播磨出陣(1578)、有岡城攻め(1578-79)などで実績を重ねていきます。そして天正7年(1579)9月、信雄は信長に無断で伊賀へ出兵。前年に織田軍が修築した丸山城が伊賀衆に攻められたことへの報復でした。
結果は凄惨な大敗に終わります。信雄自身は伊勢へ敗走し、重臣の柘植三郎左衛門らを戦死させる大失態を演じました。これら報告を受けた信長は激怒し、信雄に厳格な書状を送って痛烈に叱責。「軽率さを戒めなければ親子の縁を切る」とまで言い渡されます。
しかし、挽回の機会を与えたのも信長でした。天正9年(1581)、信雄は織田家の宿老や信長の旗本である近江衆、筒井順慶ら大和衆を率いて再び伊賀へ出陣。大軍で圧倒した信雄は、進攻からわずか10日で伊賀全域を攻略します。さらに1か月かけて残党狩りを徹底し、信長が視察に訪れた際には完全に平定を完了させていました。この功績により伊賀四郡のうち三郡を与えられ、信雄は面目を保つことができたのです。
本能寺の変と後継者争い――安土城焼失と清洲会議
安土城を炎上させた?
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が討たれたとの報せを受けた信雄は、明智光秀を討つため近江甲賀郡土山まで進軍。しかし兵力不足等により進軍を断念し、信長の居城であった安土城へと向かいました。安土城には光秀方の武将たちが留まっていましたが、光秀が山崎の戦いで敗れると、彼らは撤退しています。
しかしその直後、安土城が出火し、天守閣をはじめとする主要部が焼失する事態が発生。
『イエズス会日本年報』などの記録では「信雄による放火」と記されています。ただし、不慮の事故説や異説もあり、真相は定かではありません。信長の権威の象徴でもあった安土城ですから、もし信雄の放火だったならば、信雄の将としての評価が大きく下がったのではないかと推察されます。
清洲会議では信長の後継者の座を逃す
信長亡き後の後継者を決める「清洲会議」において、後継候補として名が挙がったのは、仇討ちを果たした三男・信孝と、信忠の嫡男である三法師でした。光秀討伐で目立った功績を残せなかった信雄は、出遅れを余儀なくされます。
結局、清洲会議では羽柴秀吉が推す三法師が織田家の家督を継ぐこととなり、信雄・信孝がこれを支える体制が整えられました。なお、信雄は後継者となるべく姓を「北畠」から「織田」へ戻して臨みましたが、意に反して後継の座を得ることはできませんでした。
秀吉との共闘と、ライバル信孝の失脚
清洲会議の決定により織田家当主となった三法師ですが、信孝が手元から離そうとしませんでした。これに業を煮やした秀吉は、対立する信孝を牽制するため、三法師の家督を実質的に信雄へ移す方針へと切り替えます。これは信雄の実力が評価されたわけではなく、政治的牽制のための擁立(棚ぼたの機会)でしたが、これにより織田家の勢力図は大きく動きます。「三法師・織田信孝・柴田勝家」の陣営に対し、「織田信雄・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興・堀秀政」の陣営が対立を深め、天正10年(1582)12月、ついに秀吉らが挙兵。名目は「三介殿(信雄)のお迎えのため」とされていますが、これは清洲城から安土までの道中にある岐阜城(信孝の居城)と長浜城(柴田勝家の甥、かつ養子である柴田勝豊の居城)のけん制が目的でした。
秀吉はまず長浜城を抑え、信雄と合流して共に美濃に向かうと、美濃の諸将たちが次々と投降します。追い詰められた信孝は戦意を喪失して、三法師を信雄へ引き渡し、実母と娘を人質として差し出しました。こうして信孝に勝利した信雄は、織田家の家督を代行する立場を手に入れます。
その後、三法師は安土城へ移されますが、幼少の間は叔父である信雄が名代として後継者の任を務めることとなりました。やがて三法師が成長すれば、家督は本来あるべき三法師のもとに戻されるため、信雄の立場はいわば「仮の天下人」という微妙なものです。実権はすでに秀吉が握っていました。
それでも信雄は、秀吉の威光を背景に天下人としての体裁を整えていきます。この時はまだ、二人はそれぞれの利害のためにお互いを必要とする関係だったのです。
「織田信孝(神戸信孝)」信長の三男。兄との差別を糧にのし上がる!?
秀吉との対立、徳川家康との同盟から臣従へ
ライバルを排して形式上の頂点に立った信雄ですが、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し、台頭著しい秀吉に強い警戒感を抱くようになります。やがて両者は決裂し、安土城を追われた信雄は三河の徳川家康と同盟を結びました。一方の秀吉は、信雄の重臣である津川義冬・岡田重孝・浅井長時の三家老を取り込もうと画策します。しかし内通を察知した信雄は即座に三家老を処刑。これにより、両者の対立は決定的なものとなりました。
そして天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いが開戦します。信雄と家康は小牧山、秀吉軍は楽団に陣を構えて対峙しました。しかし、両軍には2度の小競り合いがあっただけで、大きな動きは見られず膠着状態に陥ります。これを打破するために仕掛けてきたのは秀吉方です。家康の本拠地である三河の岡崎城を攻めるという作戦ですが、家康方がこれを見破り、秀吉軍は大きなダメージを受けてしまいます。この後も両者にらみ合いが続きますが、11月に秀吉から和睦が申し出られたため、信雄は秀吉と和解。こうなると大義名分を失った家康も兵を引き、講和を受け入れざるを得なくなりました。
天正13年(1585)2月、信雄は正式に秀吉へ臣従します。秀吉から織田家の家督継承を承認されたことで家名を保ち、正二位内大臣という極めて高い官位に就くことも認められました。しかし天正18年(1590)の小田原征伐後に憂き目にあうことに…。信雄はこの合戦で、北条氏の説得にあたるなど相応の働きを見せますが、戦後、秀吉から東海五か国への転封を命じられた際に難色を示します。天下統一を果たし、もはや信雄を優遇する理由のなくなった秀吉は、これを口実に信雄を即座に追放するのです。
出家して「常真」と号した信雄は、秋田や伊予などを転々と留め置かれた後、秀吉の御伽衆(話し相手・顧問役)として再び身近に召し抱えられます。最終的には大和国にて1万7000石の扶持を得て復帰を果たしました。
激動の時代を生き抜き、信長の血を後世へ渡す
秀吉の没後、天下分け目となった慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、信雄自身は双方に通じつつも静観を保ちました。しかし、息子の秀雄が西軍に与したため、戦後に領地を没収されてしまいます。その後は大坂天満に居を構え、俗世から離れて生活していましたが、各地の大名とは連絡を取り合っていたようです。それから十数年後の慶長19年(1614)、豊臣家と徳川家の間の雲行きが怪しくなると、豊臣方から信雄を総大将として擁立しようとする意見もあったようです。しかし、激動の権力闘争を繰り返してきた信雄はこれを拒み、京都嵯峨へと逃れて難を逃れました。
大坂の陣の際、豊臣方は織田信雄を総大将に迎え入れようとしていた!
大坂の陣が幕を閉じた元和元年(1615)、信雄は徳川家康から大和国宇陀郡や上野国甘楽郡などに計5万石を与えられ、再び大名として返り咲きます。大坂の陣に加担せず中立を保ったことや、信長の次男という高貴な血統が評価された結果でした。
領地を得た信雄は、四男の信良や老臣らに統治させて、藩の礎を築きます。自身は京の都に居を構え、茶の湯や鷹狩り、能楽などの風流に興じる悠々自適の晩年を送り、寛永7年(1630)に73歳でその大往生を遂げました。
信雄の血統は、四男・信良の系譜(上野小幡藩)と五男・高長の系譜(大和宇陀藩)として、江戸時代を通じて高家や大名として明治維新まで存続することになります。激動の時代を乗り越え、織田信長の直系子孫を後世へと残すという重要な役割を果たしたのです。
おわりに
「三介(信雄)様のなさることよ…」と家中の者から失笑を買うような失敗も多く、「暗愚」といったネガティブな評価をされがちな信雄。しかし、多くの英傑が散っていった壮絶な戦国時代を最後まで生き抜き、織田信長の血筋を後世にしっかりと繋いだのは他ならぬ信雄でした。一見「凡庸」に見える世渡りの術こそが、激動の時代を生き抜くための最大の武器だったのかもしれませんね。




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