【風、薫る連載】第5回:日本初のトレインドナース・大関和 その手が託した、白衣の未来
- 2026/07/28
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理想と現実の狭間で――「東京看護婦会」の再始動と和の合流
和が高田に行ってから間もない明治24年(1891)2月には、鈴木雅も帝大付属病院を退職している。彼女は横浜の貧民窟で天然痘患者の救護活動にしばらく従事した後、東京・本郷で「慈善看護婦会」の看板を掲げ、看護婦の派遣事業を立ち上げた。「看護婦入用の節は御依頼に応じ本会より派出可申候。但地方へも差出申候。貧困者は無給のこと。東京本郷区森川町一番地第一九〇号 慈善看護婦会」
という文面で、女性向け雑誌『女学雑誌』に広告も載せた。そこには、貧困者に無報酬で看護婦を派遣するとある。病に苦しむ貧困者を救済し、くわえて、トレインド・ナースの存在を世に知らしめその普及をはかる。と、一石二鳥の効果を狙ったものだった。
富裕層から得た看護料報酬から看護婦に月給を支払い、看護婦たちには空き時間を利用して困窮者の慈善看護をやってもらうことにした。が、慈善のタダ働きが多過ぎ、看護婦が思ったように集まらない。経営もしだいに傾き……これは不味い。と、怜悧な計算もできる雅は、すぐに会の規定を改めた。営利目的の仕事と慈善事業を明確に分け、困民救済は無理のない範囲でおこなうことに。また、会名も「慈善看護婦会」から「東京看護婦会」に改めて再スタートを切った。
すると、腕利きの看護婦が続々と入会して経営も安定する。この頃に、和も新潟から帰京して雅と合流している。以前から「高田での仕事が片づいたら、東京で一緒に仕事して欲しい」と誘われていたのだった。東京看護婦会内には看護婦養成所も創設されて、和はその講師も兼任しながら看護の現場でも忙しく働くようになる。
「致死率5%以下の奇跡」で医学界の注目を集める
日清戦争後、帰還兵が持ち込んだ伝染病が全国に蔓延している。和が帰京した明治29年(1896)には群馬県惣社町(現在は前橋市の一部)で集団赤痢が発生し、東京看護婦会に出動要請があった。この時も和は志願して出動した。現地では徹底した感染対策をおこない、重症患者には血行を促進する温庵法や、当時は珍しかった輸液浣腸などの措置も施す。すると、これらが効果を発揮して、100名を超える患者のうち死者はわずか5名。この数字は医学界からも注目を集めたという。ちなみに同年に全国で8万5876名の赤痢患者が確認され、うち2万2356名が亡くなっている。抗菌薬のなかった時代、赤痢患者の致死率は25%前後、感染すれば「4人に1人は死ぬ」というのが定説化していた。致死率5%以下というのは奇跡に近い成果だった。
翌明治30年(1897)にも、和は群馬県九十九村(現在は安中市の一部)をはじめ、埼玉県や群馬県の各地にある隔離所で感染対策の指導や患者の看護をおこなっている。彼女が陣頭指揮した隔離所はどこも、二次感染を起こすことなく他所より流行の収束が早かったという。また、患者の致死率は惣社町の時と同様、常に5%程度に収まっている。こうなると奇跡でなく必然。感染症対策のエキスパートとして、その名声は世間にも知れ渡るようになる。
なんとも皮肉な話だが、赤痢や腸チフスなど伝染病の流行が、派出看護婦の普及につながった。かつて、一部の特権階級に限られていた派出看護婦の利用が、明治時代末頃には中流層にまで広がってゆく。
素人の家族が看護すれば感染を広げる危険がある。そのため看護婦の派遣を求める家が増え、また、病院からの出動要請もあった。当時は大病院にもトレインド・ナースは少なく、技量のある派出看護婦に頼らねばならぬことが多々あった。
明治30年代の東京市中の派出看護婦会は、内務省が把握しているだけで50ヶ所を超え、そこに1000人を超える看護婦が所属していたという。この頃は看護婦全体の8割以上を派出看護婦が占める状況で、病院勤務の看護婦より圧倒的に多かった。
「看護婦」を名乗る者の数は増えたが、そのスキルが問題だった。派出看護婦の派遣事業をやるのに資格は必要なく、開業資金と数人の看護婦を集めればすぐ商売を始めることができる。当時は「口入れ屋」と呼ばれる人材斡旋業者がいて、求職者に商家の奉公人や女中、風俗嬢など様々な仕事を仲介していた。それと同じ感覚で医療や看護に関する知識もなく、看護婦派遣の事業を始める者もいる。そんな輩が、看護婦の質にまで考えが及ぶはずもない。
派出看護婦の月収は30〜40円といったところ。この時代の女性としてはかなりの高収入だが、報酬に見合うだけの医学知識や現場経験が求められる仕事だ。病院勤務の看護婦は医師の指示に従っていればいいが、派出看護婦は基本的に家庭に出向いて病人と相対する。不測の事態が起きれば、自身で難しい判断や処置をせねばならない事態が起こり得る。
雅や和が運営する東京看護婦会では、3年の年月を費やして看護婦を育成する。ひとりで患者の元に派遣しても問題のないレベルに育て上げるには、それだけの時間が必要だ。
看護婦の資格制度が創設される
素人に白衣を着せて看護婦を名乗らせたり、中には売春婦を斡旋する隠れ蓑にする悪徳業者もいた。専門知識のあるトレインド・ナースを派遣するまともな事業者はむしろ、ほんのひと握り。看護婦の質の低下で依頼主とのトラブルや医療事故も多発した。看護婦の仕事に誇りを持つ者にとっては、そういった者たちと同列に扱われることは屈辱である。正義感の強い和はこの状況に黙っていられなくなり、明治32年(1899)に日本看護婦人矯風会を創設した。看護婦の質低下を食い止め、その社会的地位を守ることを目的とした組織である。同年には初の著書『看護婦派出心得』を出版して派出看護婦としての心構えや働き方の模範を示した。
また、悪徳な派遣業者や質の低い看護婦を排除するために、看護婦にも医師のような資格制度の確立をめざして関係各所を陳情してまわるようにもなった。
内務省衛生局長の後藤新平にも、看護婦資格制度の制定を訴えたのだが、この時には感極まり大泣きしてしまう。泣きじゃくりながら詰め寄る和に、後藤もタジタジになったというエピソードが残っている。意図してやっているわけではないのだが、泣き落としは和の得意技だったとか。
そんな和の努力が実を結び、明治33年(1900)7月1日には、東京府が看護婦の資格試験について定めた『看護婦規則』を公布する。内務省の意向により全国に先駆けて実施したもので、この後すぐに各府県でも同様の看護婦規則が定められた。
看護婦規則により、満20歳以上の女子で看護婦試験に合格した者だけが「看護婦」として働くことが認められることになった。また、看護婦派遣業者も許認可制に。ただし、この規則は派出看護婦を対象としたもので、病院勤務の看護婦には適用されない。また、医療とは関係のない警察機構が看護婦資格を取り扱うことなど、法の欠陥や問題は多々あるのだが……資格試験が実施されることで、看護婦のスキルの低下は防げる。とりあえずの目的は達せられた。
関東大震災の最中に起こした「最後の奇跡」とは!?
鈴木雅は明治34年(1901)に東京看護会の会長職を退き、その8年後には京都に転居して隠棲した。会長職は和が引き継いだが、彼女には雅のように上手く人を使えない。和のやり方に反対する者が大量退会するなど、会内に不協和音が鳴り響く。自分が経営者に向かないことを悟った和は、明治42年(1909)11月に会長職を辞した。その後、自分と理想を同じにする少数の看護婦を引き連れて、新たに看護婦派遣事業を立ちあげる。飯田町(現在の飯田橋界隈)の国学院に隣接する路地裏に、「大関看護婦会」の看板を掲げた。路地の民家4軒をまとめて借り、看護婦会事務所や和の住居、看護婦たちの寄宿舎として使ったという。
この頃は持病のリウマチが悪化して、真っ直ぐ立って歩くことも辛かった。看護婦の仕事はもう無理。と、後身を指導しながらのんびり過ごす日々は〝楽隠居〟といった感じになっていたのだが……。
大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生した。この時、和は非番の看護婦たちと一緒に家で過ごしていたのだが、凄まじい地鳴りがして木造の家屋が上下に激しく揺れた。揺れが収まっても、若い看護婦たちは顔面蒼白でオロオロするばかり。その時に、
「行きますよ」
和はそう言うとスクッっと立ちあがると救護鞄を手に、杖も持たずにスタスタ歩いて外に出た。街は廃墟と化し、煙や焦げた臭いが充満している。瓦礫の中に臨時の救護所を設置し、看護婦たちにテキパキと指示を出し、続々と運ばれてくる怪我人に迅速に応急処置をおこなう。それは、和が看護婦として見せた最後の姿だった。このシーンは弟子の看護婦たちの目にしっかりと焼きつけられ、伝説として語り継がれていったという。
そして、昭和7年(1932)5月22日、和は静かに息を引き取った。享年75。訃報が新聞やラジオでも伝えられると花輪が続々と届き、道沿いに何十メートルにもわたって並ぶ様は壮観だったという。葬儀の当日だけで3000円を超える香典が集まった。現代の貨幣価値にすると1000万円以上になる。それは、苦しむ人々を救うことに費やした人生、それに対する感謝のあらわれなのだろう。





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